実は、風邪のせいとか史料の整理が悪かったため、飛ばしちゃった史料がありまして・・・。
久しぶりにやっちゃいました。_| ̄|○
ってことで、今日はその抜かした史料から。
仁川の能勢領事からの、1894年(明治27年)5月16日付『京第21号』より。
忠清全羅の東学党に関する模様は、捜索方深く注意致居候得共可信報知を得ず。通信網が整備されてない所ってのは、情報収集一つ取っても大変だよねぇ・・・。
今後地方より入港したる者に就き、別紙聞取書の如きは稍信ずるに足るものと御存候に付き、御参考迄差進候也。
ってことで、中々信ずるに足る情報を得られない中、昨今地方から仁川へ来た者に別紙の通り聞き取ったものは、やや信ずるに足るものと思うので、参考までに送ります、と。
では、さっそくその別紙聞取書を。
ちなみに、別紙は全部で6つありますのでよろしく。
5月15日調 仁川港 力武商店雇 城島虎之助仁川港の力武商店に雇われている城島虎之助からの聞き取り。
本年3月30日広済号にて出帆。
翌31日群倉(群山鎮より南)着。
夫より朝鮮船にて4日目金堤府下の竹山浦に着(群倉より金堤迄陸上八里水路(川)20里。金堤より竹山迄2里)。
此頃より、竹山より東方4里の所に東学党屯集せし噂を聞けり。
4月30日、古阜の白山へ来れりとの噂。
3,500~3,600名の由。
5月1日竹山浦より10町程隔たりし処の問屋に、20余名銃器を携へ来りて暴行せし。
主人は脱走。
家族を縛し家財等を掠奪せることを聞及びたり。
又東徒は頭に紅巾を纏ひ居れりとの事。
同夜11時、竹山浦の問屋主人と共に金堤へ避けたり。
同人の朝鮮船は、1里程下流へ下げたり。
同2日に至り、東学党は元来官吏に反対するものにして人民には害を加へざれば、敢て恐るるに足らずとの説を聞き、再び竹山浦に戻り買米運出の相談をなせり。
同3日中は船中に潜居せり。
同4日に再び上陸して聞く処によれば、白山屯集の東学徒は最早全州に赴きたり。
且親軍出張ある事を聞きたり。
尤も、不安心なれば朝鮮船を3里程下流に下げたり。
河岸を見れば、貢米私米共堆積しありて、之れは東党の掠奪を避くる為めに小舟にて運出するものなりとの事にて、60余隻の小舟の内漸く同人は2舟を借受け、同日300俵を積出たり。
然るに翌5日に至り、更に100百俵を積出さんとする場合に、東党来りて自余の米船を捕獲せんとせるに、同人の分は幸に脱して本船に積込む事を得たり。
同7日朝、同所出帆同夕隔音山に着。
同8日午前出発。
同10時頃沖合航行中、群倉(隔音山より4里)の方に、当に一日中12発の大砲を聞けり。
同夜煙島沖合に碇泊。
同9日朝出帆。
5~6里北に向けて馳走中、大砲14~5発を聞きたり。
同10日午前11時頃より、14~5発を聞きたり。
同13日本港に来着したり。
城島は、3月30日に広済号で群倉に出発。
って、いきなり引っかかるけど、広済号ってコレの事か?
んで、群倉から竹山浦まで朝鮮船で向かい、その頃から東学党が竹山の東方4里に集まっているという噂を聞いたり、古阜の白山へ来るという噂を聞いたりするわけです。
5月1日には、竹山浦から10里ほど離れた処にある問屋に、東学党20余名が武器を持って押し入り、主人は逃亡、家族は縛られ、家財等を掠奪される事件が起きたため、城島は竹山浦の問屋主人と一緒に金堤に逃げる。
5月2日に入って、東学党は元々官吏に反対しているだけで人民には害を与えないという話を聞いて、再び竹山浦に戻って商談。
つうか、さっき問屋が襲われてたじゃん。(笑)
5月4日には河岸に貢米も私米も積み上げられており、どうやら東学党の掠奪を避けるため、小舟で搬出するものだとの事。
城島も小舟を借り受け、自分の分を積み出す。
翌5日、更に100俵を搬出しようとしている時に東学党が来襲し、米船を捕獲しようとするけど、城島は難を逃れて本船に積み込む事に成功。
仁川に帰ってくる途中、8日・9日・10日に大砲を撃つ音を聞いた、と。
12月16日のエントリーの1894年(明治27年)5月17日付『機密第58号』で、平遠が日に数発大砲撃ってる云々の話は、もしかしてここから来たのかな?
続いて、別紙2へ。
徐相集所有 順初丸 河永直吉・小川梅造今度は、徐相集という者が所有している順初丸の河永直吉と小川梅造からの聞き取り。
順初丸は、5月6日に群山へ着。
同12日同所出帆す。
5月10日に清国軍艦と蒼龍及び漢陽にて親軍来着。
蒼龍と漢陽の乗組兵は同日、上陸軍艦乗組の分は翌11日上陸す。
軍艦は群山より3里計り沖に碇泊せり。
漢陽にて軍艦乗組の親軍兵を陸に運びたり。
右親軍兵は、11日中に全州へ向け進軍せり。
12日の午後2時頃、陸の方にて大砲の声2~3発を聞けり。
尤も、親軍兵の来る以前には砲声を聞かず。
親軍兵が大砲2門を持行を見受けたり。
清国軍艦の士官5~6名、親軍兵と同行せるものを見受けたりしが、清兵は見受けざりし。
親軍兵の来る前には、1村より人民50人づつを官軍の方に於て募るに付、夫れに従はずして逃げる様子なり。
米大豆を積込むに、何にも異状はなかりし。
群山近傍には日本人を見受けざりし。
群山近傍には暴民を見受けず。
古阜地方にて戦争ありて、負傷者は雙方にて1千人以上なりとの事を聞けり
5月10日には蒼龍と漢陽に乗り込んでいた招討軍が上陸。
平遠に乗り込んでいた招討軍は、翌5月11日に群山に上陸したようですな。
12月9日のエントリーで平遠の艦長が嫌がってた通り、どうやら平遠は群山沖3里の場所に碇泊して群山には入らず、漢陽に乗せ替えて上陸した模様。
で、やっぱり彼等も砲声を2~3発聞いてるんですねぇ。
そして、清国軍艦の士官5~6名が招討軍と同行しているのを見たけど、清兵は見なかったよ、と。
これが、12月16日のエントリーの1894年(明治27年)5月17日付『機密第58号』で、「能勢領事の内報」とされている其乗組士官及び水兵は親軍と共に全州へ赴き云々の話に関係してくるのかな?
続いて、別紙3を。
蒼龍号 朝鮮通弁 朴某やはり平遠は、群山沖3里の処に碇泊しているようですね。
一.5月8日に仁川出発。
10日朝群山着。
平遠は沖合3里余の処に滞泊し、蒼龍漢陽は内港に入れり。
一.親軍兵は10日に上陸。
翌11日全州地方へ発送せり。
一.平遠よりは士官4名水兵20名(携銃せしや否や不明)は、同日上陸全州地方へ視察に赴きたりと。
平遠は于今沖合に碇泊すれども、更に発砲などなせし様子なし。
一.親軍兵は全州着以来、乱民と戦争の様子なし。
乱民と戦争せしと云ふは全州の兵にて、之れは乱民の為めに大に敗られたりと云ふ。
然し、全州地方に屯集の東徒2,000余名は、京城より親軍の来るを聞て散乱せりと。
一.乱民は五色旗を持ち、旗には輔國安民大倡義とある由。
また、河永直吉と小川梅造の聞き取りにあった、平遠の士官5~6名が招討軍と同行しているのを見た話は、この通訳の言によれば士官4名と水兵20名、と。
まぁ、どっちにしろ袁世凱の「状況視察のための2名以外は乗組員に禁じて上陸させなかったから、招討軍とは少しも関係ないよ。( ´H`)y-~~ プハー」っての、嘘じゃん。(笑)
ちなみに、全州の地方兵は大敗。
しかし、全州地方に集まっていた東学の徒2,000余名は、招討軍が来た報告を聞いて解散した、と。
んー、どう見てもこの1894年(明治27年)5月16日付『京第21号』を元にして、12月16日のエントリーの1894年(明治27年)5月17日付『機密第58号』が書かれてるよなぁ・・・。
大失敗。(´・ω・`)
この1894年(明治27年)5月16日付『京第21号』の別紙はまだ続くんですが、長くなってきたので今日はここまで。
東学党の乱(一)
東学党の乱(二)
東学党の乱(三)
東学党の乱(四)
東学党の乱(五)
東学党の乱(六)
東学党の乱(七)
東学党の乱(八)
東学党の乱(九)
東学党の乱(十)
東学党の乱(十一)
東学党の乱(十二)
東学党の乱(十三)
東学党の乱(十四)