今日で、東学党の乱もお終い。
3ヶ月半も良くやったねぇ。
で、何が分かったかと言えば・・・・・・・・・・・・。(笑)
さて。
今日最初の史料は、4月7日のエントリーで、趙秉稷から仁川に上陸した兵についての照会がありましたが、それについての返事となります。
1894年(明治27年)6月17日付『第50号』より。
逕覆者昨准来椷以我馬歩軍到仁下岸上下皆甚譁騷未知有何意見云々承詢各節本公使均已閲悉査我政府初聞貴国南道民乱猖獗益甚全州隨亦失守於是貴国政府恐難剋期剿滅請援於清国而清兵将大挙而来也我政府乃謂変乱之勢既至如此之甚則護使館護商民何可遅緩一日且乱勢即大則非寡兵之所能護衛此所以我兵之陸続派来原非別有意見而然也至来亟内称南道匪徒刻已平静云々一節与本使所聞有不相符者拠聞乱徒雖已棄退全州而金溝古阜等地尚有勢焔将熾者云況乎現聞清国援軍尚在牙山等地紮駐頗有厳如対敵之勢亦足以徴乱徒未帰平静矣果如是則我国亦置兵自行護衛使館商民勢所不可已也尚望貴督辨照諒并将此意以釋貴国上下之疑惑本公使是所厚望焉耑此佈復順頌台祉昨日、「日本の騎兵と歩兵が仁川に到着して上陸したので、上下皆非常に騒がしくなったが、大鳥公使が何か意見を持っているのか分からない。」とした書翰は受け取った。
日本政府は、当初朝鮮南部の民乱の勢いが益々激しくなり、全州も陥落したということで、朝鮮政府では早期に剿滅できないと清国に援兵を要請し、清国兵が大挙として来た。
日本でも、変乱がそのように酷いのであれば、公使館と居留民を保護するために1日も遅れるわけにもいかず、内乱が激しさを増せば少数の兵では保護出来ないと考えて派兵したのであり、元々何かの意見があって派兵したわけではない。
直球。(笑)
で、送ってきた書翰には、「南道の匪徒はすでに平静になった」と称しているが、それは大鳥が聞いた乱徒は全州を遺棄して退却したが、金溝や古阜等で彼等の勢いがまだ激しいという話と符合しない。
まして今聞いたところでは、清国の援軍はまだ牙山等に駐屯し、その厳しさは敵と対峙しているかのようだという。
これは、乱徒を平定することが出来ていない証拠である。
もしそうであれば、日本も兵を置いて公使館と居留民を自ら保護しなければならない。
ということで、この意味を理解して、朝鮮上下の者の疑惑をすべて解いてくれることを非常に望んでいる、と。
前回の「陸兵を撤回せしむ可き最後の処置に付伺」で述べていたように、正論で対処。
平定したんなら、援軍を頼まれた清国は撤兵するはずだが、それをしないという事は平定できて無いんだろ?
あん? ( ´H`)y-~~ プハー
と。(笑)
さて。
上記史料中、金溝や古阜等で云々という話があります。
3月19日のエントリーでも、英文で「東学党は、6月10日、6月11日に全州で敗れ、金堤方面に逃走した。」なんて報告もあり、その他まだ取り上げていない、全州奪還後の東学軍に関する情報があるんですが、これは付日も誰が誰に出したものかもちょっと不明なので割愛しております。
「国王は、昨日始めて日本兵の入京は朝鮮に対し別に意味ある訳にあらざることを諒したりと云ふ」とか、かなりツッコミたくなる記述もあって、勿体ないんだけどなぁ・・・。(笑)
というわけで、素性のハッキリしている史料を見てみることにします。
今回の連載の最後の史料になります、1894年(明治27年)6月17日付『発第160号』より。
1)11日忠清道監司電報(我6月14日)6月14日と6月16日の忠清道監司の電報ですが、ぶっちゃけこの二つは良く分かりません。(笑)
巡辺使返向公州今始初聞即当電報仰達而雖回陣時若由陸行則列邑莫可支保各処若将離散已有懲習景色噋々預為軫念伏望
2)13日忠清道監司電報(我6月16日)
依昨教電探於完伯美即見回電則巡辺使初不直請回軍大軍久留経費夥多水陸間承処分挙行計矣現今余党猖獗曷敢回軍云且興徳取報内彼徒百余名直向茂長云百余名又向古阜興徳臨云此輩一向閃忽伏悶
巡辺使ってのは、もう忘れちゃってるかも知れないけど、李元會の事です。
最初の「列邑莫可支保」とか二つめの「水陸間承処分挙行計」の辺が、特に意味不明。
大ざっぱに言えば、巡辺使が公州に戻るって初耳なんだけど、陸路使ったらホニャララ。
ということで全羅監司に聞いてみると、巡辺使が最初から回軍を主張してたんじゃなく、大軍が長期間駐屯していれば経費が非常に多くかかり、ホニャララ。
現在残党が猛威をふるってるのに敢えて回軍を言うのか。
且つ興徳の報告では、賊徒の100余人が茂長に向かったとか、古阜・興徳に向かったとか言ってるじゃない。
何で東学党の残党がまだ暴れてるのに、公州に戻るのよ?って感じだと思うんだけど、自信無し。(笑)
ってことで次。
3)同17日探報者の報告3つ目。
賊党進出全州之時先以城内女子被男服先駐拒前陣又以良民爲中陳出西門招討使認以賊軍放回旋砲戮滅之徒輩従東門全軍逃出其所被殺実皆全州平民也彼所謂首魁全緑豆被殺云者雖登於電報然亦以伝聞之説也非認真確知也所以有全緑豆亦避生之説也現又橫行于扶安等地昨聞招討使派領官使之討平余党然東討則西走左右閃忽未易盡滅也
6月17日の探報者の報告。
賊党が全州を出る時に、まず城内の女子に男装させて官軍の前陣を阻むようにし、良民等を中陣として西門から出した。
招討使は彼等を賊軍と認め回旋砲を撃って殲滅させたが、賊徒は東門から全軍が逃げだした。
ということで、その殺された人々は、実はみんな全州の平民でした・・・。
3月12日のエントリーでの「500人余りを斬り」ではなくて、3月19日のエントリーでの「東学党は、6月10日、6月11日に全州で敗れ、金堤方面に逃走した。」の時だろうね。
つうか、それ以上に3月14日のエントリーで「招討使以為らく、此等の匪徒を遺し置かば、明春再び事を起すべし。寧ろ之を屠戮剿滅するに如かず」ってさぁ、もう市民を皆殺しにしちゃった言い訳に使うためじゃないよな?(笑)
んで、首魁である全緑豆が殺されたと電報でもあったけど、伝聞の説であって事実確認はしてないよ、と。
3月14日のエントリーで「全祿斗って、誰?」とか言ってた訳ですが、やはり「全緑豆」即ち「全琫準」で正解なようで。
その全緑豆も逃亡して生きてるという説もあり、現在扶安等の地で横行しているともいう。
昨日聞いたところでは、招討使は残党討伐に領官を派遣したが、東で討伐すれば西に逃げ、左右で光ったかと思えば消え、簡単には殲滅できないという、と。
この探報者の報告や先ほどの忠清道監司の電報によれば、全州奪還しただけで全然鎮圧できてませんが。(笑)
まぁ、勢力自体はかなり衰えてるんでしょうけど。
4)清兵に関する報告17日接す続いては、清国軍に関する17日接受の報告。
清国兵留駐牙山策応其煩屡請還陳而以待天津指教以数多日遅留也朝鮮暦今月十一日支那救兵将官聶氏電報于我政府(朝鮮政府)曰期到全州地探察賊情而若平定則已猶未能討平則率師往伐後順師奉王命而帰還之意電達矣支那救兵等自牙山郡陸行駐留成歓駅所矣成歓駅則在忠清道稷山縣而三南大路也距京一百八十里或二百里内外間也
清国兵が牙山に駐留しているのは、マンドクセーから再三帰還要請して天津の支持を待ってるからだ。
で、6月14日に聶提督が朝鮮政府に、まだ平定できてないんだったら軍を率いて討伐して帰ると知らせてきた、って感じかな?
今回、最後なのに自信の無い訳が続くなぁ。(笑)
5)在全羅道全州留学生高嶋吾八電報(本月17日午後11時55分接到)最後は留学生の高嶋吾八からの電報。
参礼(忠清道地にして公州全州の間にあり)に往く道、日本商民菊野訴へあり高山に立寄る。
参礼の電局全州に移した為め、今日5時到着。
直ぐ招討使を訪問。
東学離散。
全州鎮静。
巡辺使まだ参礼にあり、江華兵300武器引換への為め軍倉に往き、明後日又来るはず。
清兵来る模様なし。
巨魁は鹽つけにて京城に送ると云ふ。
右及御報申候也。
んー、これも前後関係が無いと分かりづらい・・・。
取りあえず、招討使を訪問したところ、東学党は離散し全州は沈静化した。
巡辺使はまだ参礼に居て、江華兵300人が武器引き換えのために軍倉に行って、明後日また来るはず。
清兵が来る様子は無い。
巨魁は塩漬けにして京城に送るという、と。
14歳の「巨魁」も塩漬けかなぁ・・・。
ってことで、今後の史料中にも関係記述は出てくるかと思われますが、取りあえずここまで。
というか、あまりに連載が長すぎたんで、次回で少しまとめてみようかと思います。
終わりじゃねーじゃん。(笑)
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