さて。
3月26日のエントリーから取り上げている、1894年(明治27年)6月14日付『機密第94号』の『別紙甲号』。
前回は、談話中に天津領事からの来電が届き、それにあった清国からさらに2,000人の兵が来る話が本当なら、日本兵を上陸させないで帰国させる事は、とてもじゃないけど出来ないから、速やかに調べて一報して欲しいという、大鳥公使の発言まででした。
今日はその続きから。
そんじゃあ、早速。

袁氏
承知せり。
万一我政府更に出兵の事真なりとするも、右は余に於て如何様にもして之を差止め、貴公使の御迷惑と成らざる様に可致候。
且つ、在牙山我兵の義も、昨日午前10時全州を回復したる報知を得ると同時に、右通知旁最初兵員を乗せ来りたる軍艦にて、先づ2、300名の兵を残し置き、其の余は盡とく帰国せしむる様取計あり度旨李中堂に電報致置き候に付、貴国より来着すべき兵員仁川へ上陸せざる限りは、右の通りに取計ふ事も出来可申と存候。
就ては、入京すべき貴国陸兵も半減せらるる事は叶ふ間敷哉。

公使
否、夫は出来不申候。
我陸軍の組織にて一大隊の編制をば之を分てば、雙方とも用を為さざる事に相成と存候。

袁氏
如此貴我両方に於て充分打合せ相届き候上は、貴我之間に異議相生ずべしとは思はれず、因て本日御談話の趣は此より無漏李中堂に電報し、右の出兵の義は有無に拘らず見合せられ度と申遣はすべく、万一余が発電間に合はず出兵の都合に相成り候共、余に於て無相違仁川より其儘帰国せしめ候様盡力可致候。

公使
兎に角、貴国出兵の実否相分り次第、速に御一報被下度。
右は我兵到着の上、上陸するとせざるとに関し、大に影響を来し可申次第に御座候。
袁世凱は、清兵2,000人出兵の真偽について一報することを了承。
その上で、万一清国が更に出兵する事が事実だとしても、それは袁世凱が何としても差し止め、大鳥公使の迷惑にならないようにする、と。

また、牙山の清国兵も、6月11日に全州を回復したという知らせを受けると同時に、李鴻章にその事を伝え、更に牙山に2~300人の兵を残して、残りは最初に兵を乗せてきた軍艦で帰国させるように取りはからってくれと電報した。
最初に兵を乗せてきた軍艦って、図南号かな?

ってことで、日本からくる予定の兵が仁川に上陸しない限り、そのように取りはからう事も出来るだろう、と。
ウハハ。
じゃあ仁川に上陸すれば、どうするんだよ。(笑)

で、京城入りさせる日本の陸兵を半減できないだろうか、と。
へぇ。
交代予定の水兵と同数の400人くらいならオッケーなんだ。(笑)

これに対して大鳥は、イヤ、無理。
陸軍の組織で1大隊を編制しているのに、これを分割すれば双方役に立たなくなるだろうし、と。

袁世凱はこれを聞いて、このように日本と清国の両方で充分打ち合わせが出来ていれば、その間に異議が生じるとも思えず、従って今日の談話の内容はこれから李鴻章に電報し、増援出兵が本当だろうと嘘だろうと見合わせて欲しいと申し述べ、万一その発電が間に合わずに出兵されても、自分が間違いなく仁川からそのまま帰国させるように尽力するから、と。

へぇ。
そのまま牙山直行じゃなくて、仁川に寄るのは分かってるんだ。(笑)
まぁ、一般的な航路なんでしょうけどね。(・∀・)ニヤニヤ

で、大鳥は、兎に角清国が増援を寄越すのがマジかどうか、速やかに一報してくれ。
それが、日本兵が到着したときに上陸するかしないかに、大きな影響あるからね、と。
んー、大鳥も負けてませんなぁ。(笑)

んじゃ続き。

袁氏
此際は、貴我の間に種々離間を為すもの少からず候に付、万事慎密に慎密を加へ、決して貴我の間に不和を生ずる事有之候には不相成候に付、貴国兵と我商民等との間に於て、些細の間違を起す等のこと無之様、充分取締を厳重にせられ度希望致候。

公使
右は無論注意を要し候事に付、既に本使より各士官へ委細申含置候。
又、兵士等も可成街頭に逍遙せしめず、多くは山■を運動せしむることまで注意致居候。

袁氏
如此にして始めて他の離間説に或はされず、此度の事は貴公使と余との両人に於て、平穏に落着せしむる事を得る義と確信致候。
此前3、40分時頃に、外国人の来客二た組別房に待せありたれば、公使即ち辞して帰館せらる。
時に午後6時30分なり。
袁世凱は、最近は日本と清国の間に色々な離間策を廻らす者も少なくないため、万事に慎重を期し、決して日本と清国の間に不和を生じることのないようしたいので、日本兵と清国商民等との間でトラブルが起こす事等が無いよう、充分取締を厳重にして欲しい、と。

大鳥も勿論この点に異存のある筈もなく、その事は無論注意する必要があるため、既に自分から各士官へ詳細に言い含め、又兵士などにもなるべく街をぶらつかないようにし、次が良く読み取れないんだけど、どっかで運動することにまで注意している、と。
また「△日露戦争物語で見た」になりますが、陸兵、狭いところに押し込められてたしねぇ・・・。(笑)

で、袁世凱は、このようにして初めて離間策に惑わされず、今回の一件は大鳥公使と袁世凱の二人で平穏に落着させられると確信している、と。
んで、外国人の来客を2人待たせてるって事で、大鳥も退出。

以上が、1894年(明治27年)6月12日の大鳥公使と袁世凱の会談の内容でした。


ってことで次は『別紙乙号』に移るわけですが、キリの良いところで今日はここまで。



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