今日はウリの誕生日。
尤も、すでにお祝いするような日でもなく・・・。_| ̄|○

兎も角、やっぱり終われなかった「東学党の擾乱に関する日記」。
まぁ、前回で終わろうと思ってたとおり、残りも殆ど無いんですが。
ってことで、1894年(明治27年)5月30日付『京第29号』の別紙、「東学党の擾乱に関する日記」の残りを。

4月2日帰寓。
果して29日には同党の過ぎるありて、非常に紛擾せりと云ふ。
京軍長浦江口の群倉より上陸し、全営と相通ぜりとの説あり。
東学軍古阜より出発し、全営と相距る里許の処に対陣せる由の説を聞く。
呑気に景勝地に遊びに行ってた筆者と松村は、1894年(明治27年)5月8日に帰ってきたんですね。
で、やはり5月4日には東学党が通過し、非常に紛擾したという、と。
あ、そういう意味では、そこに居ないで遊びに出かけてた方が良かったのか。

この頃、招討軍が上陸し、全羅監営に入った噂が出る。
実際には、この日ようやく仁川を出発してる頃なわけですが。
で、東学軍は古阜から出発し、全羅監営といくらか離れた場所に対陣したという噂も出る。
まぁ、どちらも噂の域を出ないんでしょうけど。

4月4日1軍大に東津江を渡りて扶安に入れり。
同日京軍古阜に入れり。
1894年(明治27年)5月10日、東学軍の一部隊が東津江を渡って扶安に入り、招討軍は古阜に入った、と。
んー、何か話が違う気が・・・。
招討軍、まだ群山にも着いてないはずなんですけど。
恐らく、この頃大敗してた筈の全羅監営の兵でしょうな。

4月5日昨夕不意に全営より派遣せる1軍此地に入る。
砲声両3発。
蓋し賊の有無を偵察するならん。
土民の遁走する状、筆紙の外にあり。
予も松村を伴ひ船へ赴く。
此夜、船人の服装をして上陸す。
市街森として、真に軍営裡にあるの思をなさしむ。
三々五々影暗き処に語るものは、土人の軍状を問答するにあらずんば、人家を撩へて避くべきの地を談ずるならん。
篝火の程遠からざる山丘を渉りて明滅するは、硝兵の正に勇を鼓して、風声鶴唳と戦ひつつあるの処ならん。
弦月朧々として草木将に眠らんとする頃、独歩船に帰れば松村猶未眠。
1894年(明治27年)5月11日、全羅監営から派遣された一軍が、不意に筆者のいる茁浦に来るんですね。
で、砲声が聞こえ、賊の有無を偵察しているらしい、と。
地方民は逃げ出し、筆者も松村と共に船へ。

筆者は、夜になって船人の服装をして上陸。
チャレンジャーですな。
で、当然市街は静まりかえり、本当に軍隊が駐留してるんだねぇ・・・と。
いや、地方民逃げ出してるし、当たり前っちゃあ当たり前なんですが。(笑)

暗いところでは、地方民がどこに逃げようか話しているようであり、篝火がさほど遠くない丘を渉って明滅しているのは、哨戒の兵のものだろう、と。
で、夜遅く船に帰ってみると、松村もまだ寝ていなかったって、一人で出かけてたんですかい・・・。

4月6日東学党の落武者数人捕へらる。
此夜此地駐在の全軍、其数300余北方へ向て出発す。
1894年(明治27年)5月12日、東学党の落ち武者が数人捕らえられる。
で、この地に駐留してた全軍約300名が、北方へ向かって出発。

7日朝、潰走せる兵の頻りに哀を乞ふて舟を求むるあり。
繁泊の舟、吾先きと碇を抜して発港するを見る。
間もなく、予が乗る処の船にも来れり。
最初は何軍なるを知らず。
而して、如何にして如此きかを知らず、或は郊丘を逸走するもの、或は小径より走せ来るもの其数200余に上れり。
幾時ならずして、予が友の一人は予を来訪し、事の次第を告げ曰く、昨夜此地を距る3里許の古阜黄土山に於て激戦あり。
京軍大敗し、死傷算なく、歩来の亡卒僅かに身を以て遁がるものなりと。
其戦状を聞くに、
4月4日東津江を渉りて扶安城を陥いれ、拠りて以て敵を待ちつつありし東学軍は、扶安の地形の不利なるを以て全軍を古阜に移し、羽翼を張り、以て此地茁浦に駐在するの京軍と全営との通路を切断せり。
5日京軍は、李光陽(監司の妻弟)、李在奕、宋鳳岩等兵250人を中堅とし、雇兵無慮7、8,000人を引率し之と相対陣し、令を伝へて茁浦の京軍と共に之を合撃せんことを謀る。
6日夜、茁浦の軍は戦線に到達せり。
1発の号砲と共に戦端は開けり。
夜将に深く、陰沈甚だ辨じ易からず。
怪しむべきは敵陣の応砲遅緩にして、10発中に僅に1発を応ず。
京軍突進、一挙仮城(此時東学軍、藁を以て仮城を造る)に入るや、敵は既に前後に在り、弾丸雨の如く、李光陽以下の将士多くは斃れ、死傷算なし。
敗兵四散。
空しく黄土阜丘に鮮血の漂ふを見る。
而して此地に遁れ来りたる敗兵等は、其朝偶然にも税米積載の為め来着したる朝鮮汽船に助けられ、其日仁川へ向て発せり。
1894年(明治27年)5月13日朝、潰走してきた兵が憐れみを乞うて、船に乗せてくれ~と泣きついてくる。
で、沢山碇泊していた船が、我先にと抜錨して出発していくのを見た、と。

間もなく筆者の船にも敗残兵が来た、と。
最初のうちは、官軍か東学軍か不明。
何故こうなったのかも知らず、ある者は郊丘を逃げ、或いは小道から走って来る者が200人にも上った、と。

幾らもしないうちに、筆者の友人の一人が筆者の元を訪れ、何が起こったのかを教えてくれる。
それによれば、1894年(明治27年)5月12日に古阜黄土山で激戦があり、官軍が大敗して死傷者は数えきれず、僅かに逃げて来た者がいるだけだ、と。
この辺、恐らく昨年の12月11日のエントリーを始めとする官軍大敗の話でしょうね。
日付も合致しますし。

で、どのように戦闘が行われたのかを聞くと、まずは5月10日に東学軍は扶安を陥落させ、そこで官軍を待っていたものの、扶安の地形が不利なため全軍を古阜へ移動。
「羽翼を張り」ってのは、鶴翼の陣までいかなくとも左右に広がった陣形って事で良いのかな?
で、それによって筆者のいる茁浦に駐在していた官軍と全営との通路を切断。

5月11日に官軍は李光陽・李在奕・宋鳳岩等の250人の兵を中心に、雇い入れた者7~8,000人を率いて東学軍と対峙。
茁浦の京軍と共に、東学軍を合撃しようとする。
つうか、官軍側も結構な兵力用意してたんですなぁ・・・。

5月12日、茁浦の官軍が戦線に到着。
すでに深夜になって、1発の砲声と共に戦闘開始。
ところが、敵陣の応戦が緩慢で、こっちが10発撃ってようやく1発返ってくる状態。
官軍が、東学軍が藁で作った陣地に突進すると、そこには敵はおらずに挟撃された状態で集中砲火を浴び、李光陽以下の兵士の多くは斃れ、死傷者数えきれず、と。
何か、三国志か何かを見ているようですが・・・。(笑)

で、茁浦に逃げてきた敗残兵は、13日の朝に偶然税米を積むために来た朝鮮汽船に助けられて、その日のうちに仁川へ向かって出発した、と。
この朝鮮汽船って、漢陽号じゃないよなぁ。(笑)

4月8日、東学軍興徳を過ぐ。
府内より焚出されたる人数1万8,000人と号す。
高敞を経て羅州に入る。

4月10日、京軍高敞に進軍せりとの説あり。
民心恟々、家を撩へて流離するもの多し。

4月11日、防穀令出づ。

今後の景況は、更に他日譲る。
1894年(明治27年)5月14日、東学軍は興徳を通過。
興徳府から焚出された人数は、1万8,000人という、と。
んで、その後東学軍は高敞を通り羅州へ。
南下してますな。

1894年(明治27年)5月15日、官軍が高敞に進軍の噂が立つ。
当然戦闘になると思い、家を離れて流民になる者が多い、と。

で、日記の最後、1894年(明治27年)5月16日。
防穀令が出された、と。
んで、後の状況は更に後日に譲る。

ふぅ・・・。
ようやく日記終わった・・・。
つうか、残りとか言ってた割に、いつもより長いエントリーになってるわけですが。(笑)


ってことで、今日はこれまで。



東学党の乱(一)  東学党の乱(十一)  東学党の乱(二十一)  東学党の乱(三十一)
東学党の乱(二)  東学党の乱(十二)  東学党の乱(二十二)  東学党の乱(三十二)
東学党の乱(三)  東学党の乱(十三)  東学党の乱(二十三)  東学党の乱(三十三)
東学党の乱(四)  東学党の乱(十四)  東学党の乱(二十四)  東学党の乱(三十四)
東学党の乱(五)  東学党の乱(十五)  東学党の乱(二十五)  東学党の乱(三十五)
東学党の乱(六)  東学党の乱(十六)  東学党の乱(二十六)
東学党の乱(七)  東学党の乱(十七)  東学党の乱(二十七)
東学党の乱(八)  東学党の乱(十八)  東学党の乱(二十八)
東学党の乱(九)  東学党の乱(十九)  東学党の乱(二十九)
東学党の乱(十)  東学党の乱(二十)  東学党の乱(三十)