噂の「諸君!」4月号を読んだ際、思い出した史料があってスレッドを立てたら、何か、「諸君」「論座」「中央公論」を読みくらべた方が良いと言われまして、NETの聞きかじりってなんだろうと思うと同時に、保守派の言論人も含めて狩ってくださいという話なのか悩んでいたdreamtaleです。(笑)

まぁマジな話、あれでは正直説明不足だったなぁ、と。
本来PC板の住人の方だそうですし。
最近、親切にしては裏切られるという件が立て続けに起きてまして、少し心がささくれ立っているかもしれません。
素直に反省します。
ちなみに、「日本の近代史家ってレベル低いし」という発言は、そういう公の場に出てくる史家を指しており、地道に立派な研究をされている方もいますので附言しておきます。

さて、交渉経過を本国にも報告せずに抵抗していたウェベル。
ついにバレてしまったわけですが、さて。
今日は再び、外務大臣陸奥宗光から小村寿太郎への、1896年(明治29年)5月5日発電から。

去る2日電報せし件に付、本日在露我公使より回電せり。
曰く、露国外務大臣に面会して訓令の趣を述たりしに、日露国両公使にて意見を異にする点を承知したるやと尋ねたるに付、知らずと答へたる処、外務大臣は然らば其点を取調、直接に「スペール」をして何分の回答を為さしむべしといへり。
又、調和の精神を以て、速に満足の局を結びたしとの帝国政府の希望に対しては、外務大臣は其の通為すべしと答へたりと。
依て、閣下と露公使と意見を異にし居る点を、詳細在露我公使へ電報し置けり。
前回の5月2日電について、在ロシア西公使から回電。
ロシア外相ロバノフに面会し、小村とウェベルの意見の違う処を知っているかと聞かれ、西は知らないと回答。
ロバノフは、それを取り調べて直接スペールから回答させる、と。
で、陸奥は小村とウェベルの意見の相違点を西に電報。
最初からやっとけ、と。(笑)

続いて、1896年(明治29年)5月7日発電。

露国政府より「ウエーバア」に向け目下談判の件、速に運ぶ様致すべき旨厳重命令を下したりとの電信、昨日達したる旨「スペイヤ」より本日申来りたり。
付ては閣下は右の趣御含みの上、速に「ウエーバア」と協議纒まる様御盡力あるべし。
ようやくロシア本国からウェベルに直接厳重命令。
で、談判の結果が出る前に、もう一つ陸奥宗光から報告要求の電報。
1896年(明治29年)5月11日発電。

西公使より電報あり。
過刻(露国外務大臣に向つて、朝鮮に関する事項に付ては如何なる措置を取らるるやと尋ねたるに、同大臣の答には去る5日、「ウエバア」に向つて、調和の精神を以て日本政府の提議を迎へ、速に時局を結ぶべき旨電訓せりといえり。
其れより又、亞細亞局長に向つて「ウエバア」に於て全く我提議を承知する様、電訓ありたき旨を求めたるに、同局長より外務大臣より前記の訓令を発せられたるは、日露両公使が意見を異にする所も今頃は既に談合附き居るやも知れざれば、御請求の電訓を発せることは、今暫く待たれたし)とあり。
付ては、其地に於ての談判の進行如何承知致したし。
どうも、ウェベルに協定締結を速やかに行えという電訓の他に、日本の提議を承知するような電訓も要請していたらしい。
しかし、速やかに協定を結べという訓令は出したから、今頃はもう話し合いも付いてるんじゃないか?という、いかにもルーズな返事がくるわけで。(笑)
まぁ、確かに話し合いは付いてるんですがね。

ということで、小村から陸奥への1896年(明治29年)5月13日発電より。

4月20日の御電訓に従ひ、露公使に提出したる意見に対し、同公使は遂に今朝覚書を送附せり。
右は、本官の覚書に唯一2文字の修正を加へたるのみにて、毫も緊急の変更無きを以て其儘にて同意を表し置くべし。
急転直下の合意。(笑)
さすがに本国からの電訓は効いたらしい。

続いて、これを受けた陸奥の1896年(明治29年)5月13日発の返信。

本日の貴電接閲せり。
総て確定したる上は、直ちに英文暗号にて電報せらるべし。
で、確定した後の小村からの1896年(明治29年)5月14日発電。

露公使との協議本日全く終了し、別電欧文第3号の覚書に記名せり。
目下は本官帰朝の好時機と考ふるに付、至急何分の御指揮を乞ふ。
「目下は本官帰朝の好時機と考ふるに付、至急何分の御指揮を乞ふ。」。
実は、小村はもっと早く日本に帰る予定だったのだが、俄館播遷のせいで伸び伸びになってたんですね。
カワイソスwww

ということで、紆余曲折を経た1896年(明治29年)5月14日、ようやく小村=ウェーバー協定が締結されたということになります。
肝心の内容はといえば、まずは上記電文中の1896年(明治29年)5月14日発『別電欧文第3号』より。

(3) Memorandum.
The Representatives of Russia and Japan at 京城 having conferred under the identical instructions from their respective governments have arrived at the following conclusions:

1) While leaving the matter of His Majesty's return to the palace entirely to his own discretion and judgement the Representatives of Russia and Japan will friendly advise His Majesty to return to that palace, when no doubts concerning his safety there could be entertained.
The Japanese Representative, on his part, gives the assurance, that the most complete and effective measures will be taken for the control of Japanese 壮士.
2) The present Cabinet ministers have been appointed by His Majesty from his own free will and most of them held ministerial or other high offices during the last two years and are known to be liberal and moderate men.
The two Representatives will always aim at recommending to His Majesty to appoint liberal and moderate men as ministers and to show clemency to his subjects.
3) The Representative of Russia quite agrees with Representative of Japan that at the present state of affairs in Corea it may be necessary to have Japanese guards stationed at some places for the protection of the Japanese telegraph line between Fusan and Seoul, and that these guards, now consisting of three companies of soldiers, should be withdrawn as soon as possible and replaced by gendarmes, who will be distributed as follows: fifty men at Taiku, fifty men at Hamheung and ten men each at ten intermediate posts between Fusan and Seoul.
This distribution may be liable to some changes, but the total number of the gendarme force shall never exceed two hundred men, who will afterwards gradually be withdrawn from such places, where peace and order has been restored by the Corean Government.
4) For the protection of the Japanese settlements at Seoul and the open ports against possible attacks by the Corean populace, two companies of Japanese troops may be stationed at Seoul, one company at Fusan and one at Gensang, each company not to exceed two hundred men.
These troops will be quartered near the settlements and shall be withdrawn as soon as no apprehension of such attack could be entertained.
For the protection of the Russian Legation and Consulates the Russian Government may also keep the guards not exceeding the number of Japanese troops at those places and which will be withdrawn as soon as tranquillity in the interior is completely restored.

Sd. 5. 50 P.M. 14/5, 1896
これの邦訳と締結経緯の文書が、アジア歴史資料センターの『独露ノ膠州湾及旅順口租借問題並ニ韓国保全ニ関スル日露協定摘要/2 韓国問題ニ関スル日露両国間協商一件 1(レファレンスコード:B03041182100)』にありますので、そちらを見てみましょう。

韓国問題に関する日露両国間協商一件

日露両国協商に関する覚書及議案書
明治29年2月11日、韓国王露国公使館へ播還の事■りしより以来韓国人一般の意向頓に一変し、総て日本人排斥の傾向を呈し、甚しきは之に危害を加ふる者あるに至り、内外の人心恟々
是に於て在京城小村公使は、一面我居留民の保護取締を努め、一面駐韓露国公使と協議して専ら露国水兵と我守備隊との衝突を予防せり。
然るに、当時の形勢韓国は網紀弛廃して政務挙らず、擾乱踵を接して起り、秩序日に紊し、加之日露両国の関係益々切迫を告げ事体容易ならざるを以て、将来韓国独立の実を挙げんが為めには、利害関係の最も密接なる日露両国に於て之を協定すること必要なるを認め、茲に廟議一決し、在日本露国公使并に駐露西公使を経て露国政府に対し数回内議の末、駐韓小村公使へ訓令する所あり。
其後、同公使に於ては在京城露国代理公使「ウェーバー」との間に数回会同商議を経て、遂に同年5月14日を以て協議全く結了し、同日両公使に於て左の覚書に記名を了せり。


覚書
在京城日露両国代表者は、其の各自の政府より同様の訓令を受け、協議の上左の通り議定したり。

一.朝鮮国王陛下の王宮への還御のことは、陛下御一己の裁断に一任すべきも、日露両国代表者は陛下が王宮に還御あらせらるるも、其の安全に付き疑惧を抱くに及ばざる時に至らば還御あらんことを忠告すべし。
又、日本国代表者は茲に、日本壮士の取締に付き厳密なる措置を執るべき保証を与ふ。

二.現任内閣大臣は、陛下の御一存を以て任命せられたるものにして、多くは過る2年間国務大臣若くは其の他の顕職に在りて、寛大温和主義を以て知られたる人々なり。
日露両国代表者は、陛下が寛大温和の人物を其の閣臣に任命せられ、且つ寛仁以て其の臣民に対せられんことを陛下に勧告することを以て、常に其の目的と為すべし。

三.露国代表者は、左の点に付き全く日本国代表者と意見を同ふす。
即ち、朝鮮国の現況にては、釜山京城間の日本電信線保護の為め、或場処に日本国衛兵を置くの必要あるべきこと及、現に3中隊の兵丁を以て組成する所の該衛兵は可成速に撤回して、之に代ふるに憲兵を以てし、左の如く之を配置すべきこと。
即ち、大邱に50人、可興に50人、釜山京城間に在る10個所の派出所に各10人とす。
尤、右の配置は変更することを得べきも、憲兵隊の総数は決して200人を超過すべからず。
而して、此等憲兵も、将来朝鮮政府に於て安寧秩序を回復したる各地より、漸次撤回すべきこと。

四.朝鮮人より万一襲撃せらるる場合に対し、京城及各開港場に在る日本人居留地を保護する為め、京城に2中隊、釜山に1中隊、元山に1中隊の日本兵を置くことを得。
但し、1中隊の人員は200名を超過すべからず。
該兵は、各居留地の最寄に屯営すべく、而して前記襲撃の虞なきに至り次第之を撤回すべし。
又、露国公使館及領事館を保護する為め、露国政府も亦右各地に於て、日本兵の人数を超過せざる衛兵を置くことを得。
而して右衛兵は、内地全く静謐に帰し次第之を撤回すべし。

明治29年5月14日 京城に於て
巷で流布している内容とは微妙にニュアンスが違うかな?


今日はこれまで。



小村=ウェーバー協定(一)
小村=ウェーバー協定(二)
小村=ウェーバー協定(三)
小村=ウェーバー協定(四)
小村=ウェーバー協定(五)