どんだけ雪降りゃあ気が済むのよ・・・と雪かきで運動不足を痛感するdreamtaleです。
ども。
今日はニュースから。

高級ホテルでの結婚式禁止定めた法案、国会提出へ

たまに、韓国人が何時代に生きているのか分からなくなる時があります・・・。

さて今日からは、前回の予告どおり19日付けの史料に入っていきましょう。
まぁ19日付けの史料って、実は大した史料じゃないのばっかなんですけどね。
前回、渡韓すると見せかけて結局半島へは渡らなかった宋秉畯に、日本側がまんまと騙された史料。
まずは、石塚英蔵長官から釜山の亀山平太理事官及び大邱の能勢辰五郎理事官への、1909(明治42年)12月19日付『往電第78号』より。


宋秉畯は其の地に来り居らぬや、大至急居所取調べ返電ありたし。
但し、探偵的に附け廻はすことは避けられたし。



それまで居場所を把握していた宋秉畯が、突然姿をくらましたんで焦ったんでしょうなぁ。
で、これに対する返電by亀山理事官の1909(明治42年)12月19日付『来電』。



宋秉畯未だ当地に来らず。
着次第其旨電報すべし。



同じく、能勢理事官からの1909(明治42年)12月19日付『来電』。


宋秉畯は当地に来り居る形跡なし。
発見次第電報すべし。



ええ。
冒頭のとおり、渡韓してないものは見つかる筈が無いわけで。(笑)

次に、咸興邑の警察からの報告。
1909(明治42年)12月19日付『号外』。


咸鏡南道警察部長より左の電報あり。

咸興邑大韓協会支会例会を開催したるに、全部集合せざるに先だち同会教育部長李容貞は俄に合邦宣言を痛罵し、咸興邑全部の有志を蒐め、国民大会を開くべしと称へ賛否の議論沸騰したるも、結局例会と本問題とは混同すべからずとして其儘例会を中止したるも、李容貞の一派は尚其主張を遂行せんとするの意向を認め、咸興署は説諭して其運動を禁止したり。
右及報告候也



これもやはり説諭の中身が気になる処ですな。

次に在日留学生についての、1909(明治42年)12月19日付『高秘号外』より。


東京警視総監より左の電報あり。

合邦問題に関し、危険の虞ある留學生金益三、18日午後3時30分新橋発汽車にて学友金昌翊と同行。
帰国の途に就けり。
右及報告候也。

警視総監、憲兵隊長へ通報済



12月8日のエントリー冒頭で、朝鮮問題同志会(対韓同志会)の総会及び演説会を見て、なにやら激昂していましたが、その流れなのかな?
2名ほど帰国しようとしている、と。

で、これに関してアジア歴史資料センターの『1 〔明治42年〕12月7日から〔明治42年〕12月28日(伊藤公爵薨去後ニ於ケル韓国政局並ニ総理大臣李完用遭難一件)(レファレンスコード:B03050610300)』の中に、18日付け20日受けの『乙秘第2784号』というのがありますので、それを見ていきましょう。 【画像】


韓国留学生の行動

合邦問題に関する韓国留学生の行動に就て、昨17日乙秘第277号既報を経し所ありしが、左記人名は李容九及び宋秉畯に天誅を加へんと、詭激の言論を為しある者なるやの疑ありて視察中の処、本日午後3時30分、新橋駅発汽車にて友人同宿者、韓国平安北道鐵山郡秋北村明治大学生金尚沃と共に帰国の途に就けり。

東京市神田区錦町三の九 武田イシ方止宿
韓国平安北道宣川郡
正則英語学校生徒 自称中央大学生 金益三 二十五年



『乙秘第277号』が、12月8日のエントリー冒頭で紹介した史料。
帰国目的は李容九と宋秉畯に天誅を加えるため、と。

つうか、自称中央大学生って何よ?(笑)

正則英語学校もかなりレベルの高い学校だったのに、やはり「大学」じゃないと恥ずかしいのだろうか?

続いても19日付の史料から、早稲田大学の韓国留学生関連を。
1909(明治42年)12月19日付『乙秘第2795号』より。 【画像1】 【画像2】


韓国留学生会合の件

本日午後3時より、牛込区赤城元町飲食店花月に早稲田大学韓国留学生同窓会員21名会合せり。
会の目的は、早稲田大学政治科を卒業したる同国人尹擧鉉が、韓国暴徒の為め殺害せられたる追悼会を兼ねたる忘年会にして、会員中金載■は無題の下に演説して曰く

東洋に於て独立国体面を維持せるは、日本、清国及び我国なり。
仍て欧州諸強に対抗するは、此三国に若かず。
然れども、目下一進会の提唱に係る日韓合邦の如きは時期尚早なりと云はざるを得ず、依て吾人韓国人は、絶対せざるべからず。
然れども、東洋の一大偉人たる伊藤公の死は、吾人韓国人と雖も満腔の同情を以て哀悼せざるを得ず云々。

次に、尹擧鉉の霊に対し読経せり。
其他は、任学留学生にして、各自の研修せる学科に就て高談し、別に取り止めたる事なく、最後に国家を唱し韓帝万歳を唱へ酒宴に移り、同8時無事散会せり。



尹擧鉉が、韓国暴徒に殺害された事件については、全く不明。

で、彼等の東洋って、この頃からやはり特定アジアだけなのか?(笑)
タイ王国なんかは眼中に無いようで。
「独立国」云々に関しては、彼等が早稲田大学の留学生であり、1906年(明治39年)9月に早稲田大学出版部から出された『保護国論』(有賀長雄著)を読んでいる可能性が高いため、ツッコミ無しで華麗にスルー。(笑)

そしてここでも時期尚早論。
反対の為の隠れ蓑の可能性は勿論存在するものの、皆伊藤博文や曾禰荒助の意見の踏襲というのは面白い傾向ですな。

さて、続いてもアジア歴史資料センターより。 【画像】


朝鮮問題同志会員会合の件

本日午後4時より、桜田倶楽部に於て朝鮮問題同志会の会合あり。
出席者は長谷川芳之助、坂本金弥、小川平吉、蔵原惟郭、五百木良三、望月龍太郎等にして、過日大会に際し一進会長李容九より寄せたる祝電に対する返電案■協議決定し、本日欠席したる河野廣中に一応之を示したる上打電することとなし、同4時30分散会せり。
追て該返電は秘密に付し発表せずと云ふ。



まだ紹介されてないのは、坂本金弥。
岡山の代議士であり、孫文を支援したとされる人物である。
また、(日本の)中国地方発となる輪転機印刷による、中国民報の創設者でもある。

で、李容九に対して祝電の返電案を決定と。

次に、上記画像の左側の史料。
1909(明治42年)12月19日付『乙秘第2783号』より。


大韓新聞社長入京の件

韓国大韓新聞社長李仁植は、本日入京。(午後2時10分新橋駅着)
直に神田区錦町3丁目11番地旅人宿峡陽館へ投宿せり。



12月6日のエントリーで書いたとおり、李人稙は19日に入京と。
これ以降、毎日のように李人稙の行動に関する報告が行われていくのだが、腹痛で病院に行っただの散髪に行っただの、どうでも良い事も多いため、そういった報告は今後敢えてスルーしていく事とする。
全文見たい方は、各レファランスコードにより直接見て貰えば宜しいかと。


では、今日はこれまで。


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