前回は、京城日本新聞記者団を形成する元となった、「国旗破棄事件」に関する政談演説会についての史料を見た。
個々の演説の中身はかなり笑えたわけだが、朝日新聞のNHK番組改変に関する虚報問題に関して、「報道・表現の危機を考える弁護士の会」なる団体が出した声明文によれば、(1)報道機関の第一の使命は権力監視機能であり、統監府の政策を批判している今回の政談会は条件を満たしており、(2)事件の概要については、真実相当性が優に認められておりクリア、(3)表現の自由・報道の自由があるから取材不十分でも問題ないそうなので、今回の史料における政談演説会は「報道・表現の危機を考える弁護士の会」のお墨付きってことで。(笑)
ま、そんなお墨付きをもらったところで、嬉しくも何ともないわけですが。

さて、馬鹿に向かって馬鹿と言うのはここまでにしておいて、続きの史料を見ていこう。
前回の政談演説会は、京城の旭町歌舞伎座で行われたわけだが、同様の政談演説会が仁川及び平壌に於いても行われている。
まずは、1909年(明治42年)3月1日付『憲機第469号』より。


2月25日午後7時40分より、大邱観商場楼上に於て国旗破棄問題に関する演説会を開会せしが、其状況左の如し。

一.弁士は、大韓日報記者山道亞川、朝鮮日々新聞記者今井蓼州、大阪毎日新聞社京城支局主任羽田浪之紹の3名にして、聴衆は日本人約600余名にして、一般聴衆に大に感動を与へたるも、場内静粛にして異状なかりし。

二.演題に山道亞川、国旗事件の顛末に就て。
今井蓼州、国旗問題と統監政治に就て。
羽田浪之紹、国旗問題の解決法に就て等の演題なりき。

右の如く、演題は各異なると雖ども、其演説の大要は大同小異にして、其要領は左の如し。

三.演説の要領は、隆熙3年2月韓国皇帝北韓巡幸当時、我国民の守護神とし我国民を代表する日章旗に対し、拭ふべからざる一大侮辱を加へられたり。
吾人、日本国民として斯の如き重大事件を等閑に附するを得んや。
伊藤統監の、巡幸に陪従せられたる主義目的とする処は、韓皇の御伴にあらず。
又、同行したるにもあらず。
其真意は、韓皇の保護に出でたるものにして、其責任は重且つ大なり。
然るに、不幸にも此行幸中、国旗侮辱問題なる重大事件を惹起するに至りたれば、大に国民一般の遺憾とする所なり。
当時、新義州に於て同地学生が国旗を破棄したるは素より、学生又は教師の責任にあらず。
監督長官、即ち学部大臣の責任なり。
苟も我国旗に対し侮辱を加へられ、日本国民として之を袖手看過することを得んや。
日本臣民協同一致大に期する処なかるべからず云々。
午後10時30分、無事閉会を告げたり。
以上。



前回は、主催者『大韓日報』、『電報通信社』、『大阪朝日新聞』、『雑誌朝鮮』、『時事新報』、『京城新報』という面子だったが、今回は、主催の『大韓日報』は変わらないものの、その他は『朝鮮日日新聞』、『大阪毎日新聞』に変わっている。
演説の中身については要領を纏めたものではあるが、前回の「当局者の処決」という表現から、「監督長官、即ち学部大臣の責任」とハッキリ名指して居る。
で、世論煽動は変わらず、と。
続いてが、平壌での様子。
1909年(明治42年)3月8日付『憲機第515号』。


一.国旗問題に関する政談演説会開催の為め、去る6日、当京城より電報通信社の野島、朝鮮日々の今井、大韓日報の山道等3人が平壌へ出張し、同地に於て演説会を開催したりと。
之れにて同問題演説会を終決とし、今後は右記者等の中に委員を撰定し、総理大臣李完用に面接し、国旗問題に関する韓国各地居留民の世論及決議文の要領を告げ、以て処決を促すことに決せりと云ふ。



電通は野島となっているが、これは能島の誤りではないだろうか。
他の『朝鮮日日新聞』の今井及び『大韓日報』の山道は、仁川と変わらず、と。
これで、国旗問題演説会が終了したわけである。
他の地方に於いても、同様の演説会が為されているかも知れないが、その場合は史料の拾い忘れ。
乞うご容赦。


今日はこれまで。


京城日本新聞記者団(一)
京城日本新聞記者団(二)
京城日本新聞記者団(三)
京城日本新聞記者団(四)
京城日本新聞記者団(五)