昨日は、三派合同がなされそうな「空気」について記載した。
ここから三派合同までの大きな動きというのは、四つある。

まず一つ目は、少し遡る形になるが1909年(明治42年)6月14日の伊藤博文の韓国統監の辞任である。
9月10日のエントリーで若干触れたものの、未だ勉強不足であり、且つこれで連載一つ出来そうなものなので、今回は詳細割愛。
但し、後ろ盾となるべき人物が替わった事は、かなり重要な意味を持つのではないだろうか。

次に、1909年(明治42年)7月6日の『韓国併合に関する閣議決定』である。
尤もこれは、直接的影響を与えたわけではないのだが、一応取り上げておこう。
史料は、アジア歴史資料センターの『韓国併合ニ関スル閣議決定書・其三(レファレンスコード:A03023677700)』より。

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帝国の韓国に対する政策の、我実力を該半島に確立し之が把握の厳密ならしむるに在るは言を俟たず。
日露戦役開始以来、韓国に対する我権力は漸次其大を加へ、殊に一昨年日韓協約の締結と共に、同国に於ける施設は大に其面目を改めたりと雖、同国に於ける我勢力は、尚未だ十分に充実するに至らず。
同国官民の我に対する関係も亦、未だ全く満足すべからざるものあるを以て、帝国は今後益々同国に於ける実力を増進し、其根底を深くし、内外に対し争ふべからざる勢力を樹立するに務むることを要す。
而して此目的を達するには、此際帝国政府に於て左の大方針を確定し、之に基き諸般の計画を実行することを必要とす。

第一.適当の時機に於て、韓国の併合を断行すること

韓国を併合し之を帝国版図の一部となすは、半島に於ける我実力を確立する為、最確実なる方法たり。
帝国の内外の形勢に照し、適当の時機に於て断然併合を実行し、半島を名実共に我統治の下に置き、韓国と諸外国との条約関係を消滅せしむるは、帝国百年の長計なりとす。

第二.併合の時機到来する迄は、併合の方針に基き充分に保護の実権を収め、努めて実力の扶植を図るべき事

前項の如く、併合の大方針既に確定するも、其適当の時機到来せざる間は、併合の方針に基き我諸般の経営を進捗し、以て半島に於ける我実力の確立を期することを必要とす。



韓国併合の方針において、良く強調されるのは第一の方である。
しかし、第二にあるとおり「併合の時機が到来するまで」は、当然具体的に決まっていない。
これに関する深い話は、また後日。

次に、1909年(明治42年)7月12日の「韓国司法及監獄事務委託ニ関スル覚書」の締結。

最後の一つを、1909年(明治42年)8月12日付け『憲機第1599号』から見てみよう。


一進会長李容九は、東京に滞在中内田良平、宋秉畯等と共に、杉山茂丸と往来し、懇親を重ぬるに至りたる結果、其間遂に同人を一進会顧問とするの内議ありし趣なるが、此頃東京と京城の間に議熟し、明後14日一進会本部に同会総会を開き、杉山を同会顧問に推撰することに決定したりと。
右にて一進会顧問は、従来の内田良平と共に2名となりたり。



杉山茂丸。
当時の新聞や雑誌にも、「政界の黒幕」「策士」「国士」「ほら丸」等々のレッテルを貼られるような人物であったとの事。
どこまで本当の話かは分からない。
これも、詳しく調べればそれなりに面白いのだろうが、取りあえず話を先に進める。
ということで、内田良平と共に杉山茂丸も一進会の顧問となったわけである。

さて、宋秉畯・魚潭争闘事件以降、表向きは一旦収まった内閣に対する風当たり。
しかし、裏で何かあったものやら、本当にやらかしたのやら、次のような報告がなされる。
1909年(明治42年)8月18日付『憲機第1636号』より。


総理大臣 李完用
内部大臣 朴齊純

右両名、近来大に煩悶しつつありとて、左の如く語りたるものあり。

一.談の要領
李完用は、一昨年英親王を皇太子に、且厳妃を立后せしむることの運動にとて、時の宮相、李完用と共に太皇帝に説く所あり、伊藤公爵に贈賄の意味にて金20万円を受領したりと。(此金額は、「コールブラン」銀行に完用の名にて預けありとも云ふ)
然るに此頃に至り、此金額は伊藤公の手に渡らず、完用の着服し居りしものなること、太皇帝の了解せらるる所となり、帝より返還を命ぜられたりと。
之が為め近来金策に窮し、完用は他の事に托して各大臣に若干づつ出金を求めつつありと。
而して仮に此金策成るも、太皇帝に信を失し、其進退に関し痛く苦闘しつつありと。(東小門外青岩寺に、避暑と称し来客を謝絶し居りたるも、此程帰邸したり)

内相朴齊純は、始め入閣の際、李完用とは進退を共にすべく堅く約する所ありて就任したるも、此頃に至り、李完用の進退に窮するを知るや、其内閣に立つことの余まりに短期なるに煩悶し、近来は居宅にて家族を殴打し、或は家具を破壊する等、殆んど狂人の如き態度に出づることあり。
其去就に関し快悩しつつあり、為めに近来外間には、朴齊純発狂したりと風説さるるに至れり。

右、談の儘を及内報



この報告の内容の真偽は別にして、このような噂が流れていたのは事実なのであろう。
まぁ、こういう噂が火を付けたのではないだろうが、1909年(明治42年)9月3日に一つの報告が行われる。
『憲機第1713号』より。


一.一進会、大韓協会及び西北学会の幹部左記の者は、9月1日午後8時頃より清華亭に集合し、何事か秘密に協議をなしたりと。

一進会々長 李容九
同副会長 洪肯燮
大韓協副会長 呉世昌
同総務 尹孝定
同会員 沈宜性
西北学会々長 鄭雲復
同評議員 李甲

二.聞く所に依れば、右の会合は三会の連合に関する密議なりし趣にて、未だ具体的成案を見るに至らざりしも、大体に於て協議は纏まりたりと。
或は、各派歩調を一にして、現内閣に当らんとするかの説あり。
尚視察中。

三.本件に関してか否かは不明なるも、内田良平は、近日東京より京城に来る筈なりと。



こうして、三派合同に関する第一報が飛び込んでくるのであった。


今日はこれまで。


三派合同(一)