さて、何故これまでHIT数が激減しようとかまわずに(笑)、しつこく一進会関係の流れを追ってきたかといえば、勿論合邦運動の解説を最終目的として、そこまでの背景説明の部分が大なわけです。
そして、反対に合邦運動において一進会を声討したという、大韓協会の背景にも迫っておきたいな、と。
何か、益々読者離れが進みそうですが、元々マニア向けだから良いか、と開き直ってみたり。(笑)

8月29日のエントリーにおいて、尹孝定が共進会→憲政研究会→大韓自強会→大韓協会と設立していったと述べた。
あまりに遡っても仕方ないと思うので、まずは大韓協会の前身である大韓自強会のお話から。

しかし、今回中々良い史料がないんだよなぁ。
と嘆いていても仕方ないので、皇城新聞の記事から抜粋していこう。
皇城新聞は張志淵が社長であり、彼は大韓自強会にも参加していた事から、一種の広報の役割も果たしていたと思われる。

まずは、大韓自強会の成立である。
1906年(明治39年)4月3日の『皇城新聞』に「大韓自強会設立」という論説が載せられた。
近日、有志紳士諸氏によって大韓自強会が作られ、その目的は教育の拡張と産業の発達を研究実施することにより、自国の富強を図り、独立の基礎を立てるというものであったという。
成立はこの様に、現在大体でしか分からない。
ハッキリと書かれた史料があったら、そのうちに。

その約2週間後、4月16日の同じく皇城新聞によれば、14日午後2時に尹孝定の家を臨時事務所として臨時会が開かれ、会員67名が集まり役員を決定している。
結果、会長に尹致昊、評議員に張志淵・朴珍洙・沈宜性・南宮薫・林炳恒・朴勝鳳・尹孝定・李相天・金相範・李源兢、幹事に安秉瓚他8名。
そして、顧問となったのが大垣丈夫であった。
うーん。
この頃から関係してたのね。

ということで、ここでアジア歴史資料センターの『12 陳情書 1(建言雑纂 第一巻)(レファレンスコード:B03030229100)』、1911年(明治44年)1月12日付けを見てみよう。

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陳情書

凡そ士の世に処するや、先づ自己の長所短所を自覚し、其長所の方面に於て国事に尽瘁すれば、必ずや国家に貢献するの分量を多からしむべし。

小生は、嘗って朝鮮支那の研究に興味を有し、聊か造詣する所あり。
偶々日韓協約の成立して保護関係の定まるや、大官にして憤死する者あり。
有志者にして大道演説を為す者あり。
当時著しく排日思想の勃興するを見るや、故伊藤公爵に陳情し、其許諾を得て乃ち渡韓し、大韓協会と称する政社を組織して其顧問と為り、同国読書の士、有志の輩、所謂排派を網羅して軌導を脱せしめず、漸次指導すること茲に6年に及べり。



昨日言及したのと同様に、この陳情書もほぼ猟官運動と言っても良い為、全てを信じる事は出来ない。
前述の皇城新聞から見るに、実際には、大韓自強会と大韓協会の顧問として5年ということになるが、渡韓していきなり顧問というのも難しいであろう。
日韓協約の成立が1905年(明治38年)11月17日であり、その暫く後に渡韓したであろう事を考えれば、準備期間を含めて6年というのは妥当であると考えられる。

以下は合併後の話になるが、一応掲載しておく。


朝鮮併合後、政社の一并に解散せらるるや、其柔順にして何等の騒擾なきのみならず、組織の当初より解散の結了に至るまで、曽って一人の犯罪者を出さざりしは平生に於ける小生苦心の効果なれば、帰京の翌日之を故公爵の墓前に奉告したり。

夫れ、小生の韓人に対するや、先づ同上して慰安を与へ、然る後其同情者として之を戒諭し、以て漸次其誤解を正したり。
蓋し均しく戒諭するにしても、能く朝鮮を了解し、能く彼等の気質を会得し、其病根を指摘して世の事理を明示するにあらざれば、彼等は無智と雖も容易に首肯せざるを常とす。
故に彼等の能く小生の言に聴き、能く小生の指導に信頼したるは、唯小生が幸に彼等に対する呼吸を呑込み居りたるが為めのみ。
又、前代各統監より朝鮮国情に就き時々御下問を受け、或は調査事項を御参考の資料として時々奉呈したるは、小生の立場が之を知るに便宜の多かりしに由るのみ。



朝鮮の国情に就いての下問は、内田のように嘱託でなくとも行われていたのだろう。
まして、9月10日のエントリーの記載にもあるとおり、曾禰荒助が大垣丈夫と親交があれば十分有り得る話ではある。


抑も今や平穏に且つ確実に併合の実行を見たる以上は、小生等の如き口と筆との人を要せず、所謂真面目なる農工商者の渡韓を奨励すべきに付、小生は其事由を当局に告げ、若干の慰労金を拝受して併合後一時帰国したりと雖も、由来清韓に関する研究を為したる身を以て、清国の情勢が今日の如く其険悪なるを見るに至りては、寧ろ自己の長所に於て国家に貢献するは、清国の方面に在りと思惟し、此際渡清して政党の組織に助力し、民心の誤解妄想を漸次矯正すること6年間、朝鮮に於て相働きたるが如くして、遂に彼等を我帝国に信頼せしめたき希望を抱懐す。
蓋し此事たるや身微にして、任甚だ大なるが如しと雖も、我が在韓中の演説及び誌文が往々清国新聞紙に転載せられて、彼地に卑名を知る者鮮からざるのみならず、曽って親交ある相当の人物も亦た之あり。
旁々私かに工夫考按あれば、必ずや素志を貫徹せんことを期す。

憶ふに貴官は前途有為の資を以て、現に政務局長たり。
而かも先年小生の渡韓に対する、故伊藤公爵の御口達を伝へられたる縁故もあれば、幸に此志望を容認せられて、更に次官大臣両閣下に御上申あらんことを希望す。
又、北京駐在帝国公使へ御添書あらば、本懐之に過ぎず、夫れ渡清後民心指導に関する具体的方法手段は追て申告すべしと雖も、兎に角終身の事業として彼土を墳墓の地として、帝国の為め思慮ある運動を為すべきを誓ふ。
是を以て、謹んで陳情書を呈す。
敬白



この文書だけ見ると、何か日本の特殊工作員のようにも見えるね。(笑)
誤解されるとまずいので、ここで伊藤統監から鶴原総務長官への1907年(明治40年)9月13日発『来電第38号』を見ておこう。


曩に帰朝したる大垣丈夫は、国債報償会の募集金25万円を以て、統監府の承認の下に一の銀行を設立せんことを企図し、大岡育造を経て本官に面会したしと申出でたるに依り、本官は其の計画を是認する能はざるを説示し、面会を拒絶せり。
警視庁の報告に依れば、大垣は昨12日午後、当地出発。
再び渡韓せるが、出発前同人は、其の希望を本官の峻拒したるを憤慨し、自強会を煽動して排日運動に着手すべしと唱へ居たる由。
同人の挙動に付、注意あるべし。



大岡育造は、後の衆議院議長であり立憲政友会の大岡育造だろう。
どういうツテを持っているのだろう?

しかし、国債報償会の募金25万で銀行設立を企画し、断られて逆ギレ。
ま、所詮大陸壮士ですな。
今のアジア的優しさに溢れた人や、アジア連合大好きな人達に近いように感じたり。(笑)

さて、巷間の記述によれば、大韓自強会は高宗の退位に関して激しい反対運動をなし、保安法の適用を受けて1907年(明治40年)8月19日に強制的に解散させられたとされている。
そして、大韓協会の設立は1907年(明治40年)11月17日とされているのだが、これだと話が合いませんな。
しかも、25万って大韓毎日申報の集めた募金総額17万より多い・・・。
大韓自強会の解散及び大韓協会の設立、国債報償金に関する件は、未だハッキリした史料が見つかっていないので、判断は保留しておこう。
というか、強制的に解散させられたという話だけで、何に基づいているのか見つからないって何よ?(笑)



 (大韓協会設立時のものとされる写真)


他に大韓自強会で見つけられた史料は、残念ながら9月13日のエントリーでの倒閣運動に名を連ねている事、及び国債報償運動に関連して名前が出てくる事くらいである。
今後も大韓自強会の調査は継続していくが、まぁ今後取り扱う予定の大韓協会の話じゃないから、いっか。(笑)