アジア歴史資料センターの目録の粗雑さによる検索等の問題点に関しては、4月2日のエントリーを始め、何度か述べてきた。

一方で、8月19日のエントリーでも書いたとおり、新規資料公開は逐次行われている。

もしかしたら、私が見逃したのかも知れず、実は以前メモってたりもする気もしないわけではないかもしれない。

と、連載中に掲示しなかった理由を糊塗した所で、標記に関する史料の追加。(笑)
内田の嘱託の件である。

統監府嘱託内田良平の連載冒頭、「赴任時での嘱託と随行というのは少し無理がある気はする。」と書いたわけだが、実際無理だった史料である。
『統監府及所属官署雇員使用ノ件ヲ定ム(レファレンスコード:A01200013900)』。
まずは、【5画像目】から見ていこう。


統監府及所属官署は創設日浅く、各種事務の整理すべきもの及急速調査官僚を要するものあるが故に、台湾総督府及関東都督府同様、当分の内俸給予算定額内に於て嘱託員、雇員を使用する必要有之候に付、別紙勅令発布相成候様致度、此段及御照会候也。

明治40年3月30日
統監公爵伊藤博文



という事で、来韓後約1ヶ月が過ぎた所で、統監府において嘱託員を(予算内で)使用出来るよう要求が、伊藤から出されているのである。
また、【6画像目】の『別紙勅令』については、「嘱託員」に関係する部分が紙で隠されているが、これは現在の修正液の代わりだと考えられる。
伊藤の原案においては、「嘱託員」も含めようと考えていたのであろう。

どのような経緯で、「嘱託員」が抜けたのかは不明だが、恐らく「スチーブンス」の取り扱いに関連しての事である気がする。
これはあくまで推測。


いづれにしても、伊藤の来韓時に嘱託として内田が同行できる筈が無い。
ま、恐らくmythの一部なんでしょうな。
という話でした。


さて、これまで一進会の話を始めとして、黒龍会系の史料と対比させる形で話を進めてきたが、これらの史料は嘘と自慢話と噂と武勇伝が入り交じってると考えられ、引用等には注意を要すると思うのである。
今回の結論。


統監府嘱託内田良平(一)
統監府嘱託内田良平(二)
統監府嘱託内田良平(三)
統監府嘱託内田良平(四)
統監府嘱託内田良平(五)