今日は、前回のラストでちょっと触った、農商工部大臣だった宋秉畯が内部大臣になる話。
『日韓合邦秘史』あたりの表記によれば、1908年(明治41年)5月に宋秉畯が辞表を提出し、伊藤はこれを許さず、宋を内部大臣に任命して慰留したとされているようである。
これについて検証してみたい。

ということで、伊藤から曾禰への1908年(明治41年)6月6日発『往電第322号』を見ていこう。


左の通、西園寺首相及林外相へも御伝を乞ふ。

昨夜晩餐に招き内閣各大臣も列席せり。
然るに宴了り本官皆散したる後、総理大臣農商工部大臣の両人居残、現内閣各大臣の地位を多少変更せんとの意見を申出、本官の同意を求めたり。
其変更の主なる原因は、現任観察使及郡守を交迭するの必要を認めたるも、之を断行せん事至難に属し、畢竟内部大臣の腕を要するが故に、此際宋農相を内部に移し、任内相を度支部に、高度相を法部に、趙法相を農商工部に転任せしめ、而して地方官交迭の目的を達せんとの希望なり。

本官は之に対し別に異議なきも、由来韓国の事。
秘密を保し難きに就き、若し此案を決行せんと欲せば未だ世評に上らざるに先ち、急劇発表するに如かずとの旨勧告し、両大臣は、本日午前中に一切の手続を了すべきを約し帰りたるに、果して、本日午前中各大臣間の内議纏まり、奏請裁可を経而本日の官報に発表する事に運びたる旨、只今李総理の通知に接せり。
御参考まで電報す。



晩餐会終了後に李完用と宋秉畯の二人が伊藤を訪れ、現任観察使及郡守を交迭するために内閣改造したい、と。
この時点で既に、冒頭の表記も怪しいですな・・・。

そして、韓国の事だから秘密保持は難しい、と。

谷内正太郎外務事務次官も、「お前等が、秘密を保てずに信用されてないのは昔からですが、何か?」と言ってやれば良かったのに。(笑)

で、内密に進めて突然発表するように勧告して、内儀、奏請、官報での発表をした通知を李完用から受けた、と。
そして、丸山警視総監から佐竹秘書官への、同日付の『韓国内閣更迭通報件』より。


本日、任内相は度支部大臣に、宋農相は内部大臣に、趙法相は農商工部大臣に、高度相は法部大臣に任ぜられたり。


ということで、内閣改造といっても、担当する部がまわっただけなんですな。
大体、冒頭のような経緯で内部大臣が替わったら、任善準が黙ってないのではないかと。


そして、変更の主な理由とされた現任観察使及郡守の更迭については、『純宗実録』の隆熙2年(1908年・明治41年)6月11日によれば、平安南道観察使の朴重陽を慶尚北道観察使に、慶尚南道観察使の金思默を京畿道観察使に、江原道観察使の黄鐵を慶尚南道観察使に、前副賛議の李軫鎬を平安南道観察使に、前副賛議の李範来を咸鏡南道観察使に、内蔵院副卿の権鳳洙を忠清北道観察使に、前副賛議申応煕を全羅南道観察使に、前監査官の趙羲聞を黄海道観察使に、前副賛議の崔廷徳を忠清南道観察使に、前副賛議の李圭完を江原道観察使に任命という事で、大幅な入替が実際に行われている。
彼等は主に日本への亡命経験など、実際に日本を見ている者が多いのが特徴だろう。
ある意味で、親日派を各観察使としたと言われても、間違いとは言えない。

尚、再び『純宗実録』によれば、彼等新任の観察使を含め各道の観察使と漢城府尹は、6月15日に召見が行われ、民政に力をつくすように勅諭を受けている。


一方で、内部大臣から度支部大臣となった任善準も、『純宗実録』の隆熙2年(1908年・明治41年)6月8日付、つまり内閣改造の2日後には、李完用と共に隆煕2年度歳入歳出総予算額各 352,600円追加案を上奏し裁可を得ており、きちんと仕事をこなしているようである。


ちょっと脱線するが、この後日本側は6月13日付『内部及農商工部次官交迭ニ関スル件』より。


今回大臣更迭の結果、木内を農商工部次官に、岡を内部次官に任命するの必要を認め、木内には既に其旨を内示して承諾せしめたるに付、岡へは閣下より事情止を得ざる趣きを御申し聞け、承諾せしむる様、御盡力相成り度し。
右の更迭は、直ちに実行すべし。
岡へは成るべく速に帰任する様、御伝達相成り度し。
岡の諾否、速に返電報を乞ふ。

今日の場合、止むを得ざるより岡は承諾致したり。
併し、元来を申せば如此例を開くは、好ましからざることと信ず。



木内は木内重四郎、岡は岡喜七郎かな?
で、何故か各次官木内と岡も入替がなされたわけである。
この理由については不明。


以上の事から、冒頭の「1908年(明治41年)5月に宋秉畯が辞表を提出し、伊藤はこれを許さず、宋を内部大臣に任命して慰留した」という話は、どうも怪しいようである。