今回も、前回に引き続き、境喜明警視の1909年(明治43年・隆熙3年)11月5日付の『復命書』を掲載していこう。
二.重根の妻子の連れ行きたる鄭大鎬
大鎬は、安定根・金文奎等の口供に在るが如く、目下吉林省綏芬河税関に奉職中の者なるが、伊藤公満州行の発表せられたる11月13、4日頃任地を発し、同17日平壌に来り自己の家族及重根の妻子を引連れ、23日同地出発。
安奉鉄道に依り浦塩方面に向ひたり。
而して同28日、長春局同人発、鎭南浦金文奎宛て、「ツイタ、イマタツ」との電報を発し居る等の事実より推考するに、大鎬は今回の兇行の内容を知り、重根の妻子を引纏むるの任務を帯びたるものの如し。
然れども、殺害の遂行せられたる26日の翌々日、即ち28日の打電は、或は彼が何等干知せざる体裁を装ふ為めの行為にあらざるかを疑う。
三.大鎬の友人李承泰外関係人
平壌水商組合の総務たる李承泰が、昨年鎭南浦にて安弁護士の事務員たりし時、大鎬は同地税関主事を勤め居りて、互に知合と為り、今回大鎬の来壌に際し、屡次往来したる事実あり。
又李承泰と共同事業に従事する李秉喆、大鎬の宿泊せし宿屋主人金允灝、滞在中遊興の席に侍したる妓生春桃·瑛月等に付厳密取調を為したるも、何等本件の事実を知りしと認むべき端緖を得ず。
安重根の犯行二週間前、鄭大鎬という者が安重根の妻子を連れてウラジオストック方面へと向かった。
当然、鄭大鎬自身が事件の謀議に参加し、そのような役割分担を負ったのではないかと疑われ、上記のような報告が為されたのであるが、結局は事件の共犯者として罰せられる事は無かったのである。
死刑執行の前日に行われた、安重根と安定根、恭根の面会の記録から、当該部分を引用してみよう。
(前略)
更に鄭大鎬は如何せしやとの問に対し、二弟は鄭より端書到来せしが、鄭は復職して無事に税関に勤務せるとの事なりと応へ、且つ鄭が平壌に帰りたるときは始終酒色に耽り、妓生など買ひて殆んど1週間許りも遊び居りたりと告げたるに、安は、「彼は実に愚な奴なり。併しながら彼が斯く遊楽に耽りて、嫂等を連れ来ること遅延せしが為め、却て自他の幸となれり。若し嫂等早々に引き連れ来りしならば、自分も之に面会したるべく、且つ兇行に関し、鄭大鎬も大に疑を受くることとなりしならん。幸に遅延せしが為め、却て自他の幸福となりしなり。」と述べたり。
このように女好きのおかげ(?)で、安重根の死刑執行前に税関に復職していたようである。
死刑執行前日の面会の様子四.重根家族の口供
前述の如く、平壌地方に於ては到底事件の真相に近づくこと能はざるを以て、重根の家族取調べの為め、其住所たる鎭南浦に向ひ、同地警察署に抑留中の重根の母趙氏、第一の弟定根、第二の弟恭根、鄭大鎬と懇意なる金文奎の4名に付き取調べたるも、是亦兇行と直接の関係については何等得るとことなく、只犯人の平素の行動に於て、右等4名の口供に徴し、這間の兇行も敢て為すべき人物なること推想し得らるるものとす。
五.内地関係の推定
以上関係者の取調べより推考するに、今回の兇行は直接韓内地との関繁ありと認むること能はず。
乍去、由来陰謀に巧みなる当国人の事とて、深く裡面に於て虞るべき暗流の潜むものなきや、多少の疑なき能はず。
重根は、地方にて多少門地ある家に生れ生計又富裕なるより、韓国普通の教育を受け、壮年に及んで上海・芝罘等に遊び、稍や海外の状況に通じ居るものにして、而して彼が浦汐行を思立ちし、直接の動機とも見るべきは、隆熙元年7月頃、平壌に於ける「三合義」の失敗に帰したるより発意したるものの如し。
又遡って彼が行跡を視るに、先代より天主教徒として郷里信川郡の宣教師、仏人白神父(白は漢字訳)の教化を受け幾分新智識を養ひつつ、一方には現時の日韓関係上不平を懐く可き萌芽を造りたるが如く、彼が浦汐行の途次元山に立寄り、洪神父(洪も白と同義漢字訳)の許に一時寄食し、金東億なる者と同行浦汐に渡りたる趣き、洪より白に通知し来りたるより、弟定根は兄重根の浦汐に在るを知りたる事実ありて、彼と天主教の白・洪とは浅からざる関係あるべきを知るに足る。
浦汐渡航後の彼は安応七と変名し、暴徒の一部将として日本人、一進会員を豆満江岸に於て殺害し、暴威を振ひたることあり。
又元山・田口商会気付朴応相を経由せば、通信の途あるべき旨記したる書翰を、大韓毎日申報社の会計たる林雖正を経て弟定根が受取りたる事実あり。
是等の点より視るときは、浦汐方面の暴徒、仏人宣教師、大韓毎日申報及彼が会員たる西北学会間に、一縷の脈絡を通じ在ること疑ふ可からず。
果して然らば、今回の兇行は如上危険分子の予ての計画にして、伊藤公の旅行は偶然にも彼等の非望を遂げしめたるものと推定する外なし。
故に、本件と韓内地直接の関係として認むべき材料を得ざるも、陰謀的根帯の此地に彌蔓せるは疑を容るるの余地なきものとす。
事件を起こすに至る環境面での調査報告である。
特別突っ込む場所も無いのだが、洪神父から白神父に、安重根の動向が連絡されていた事には少し注目しておきたい。
この復命書にあるとおり、「彼と天主教の白・洪とは浅からざる関係あるべきを知るに足る。」である。
まぁ、事件に直接関係する事項ではないが、個人的に面白いので記載しておく。(笑)
さて、次からが非常に面白い、実弟安定根の供述である。
実弟の供述ということで、信憑性はかなり高いのではないかと思う。
六.安定根の口述
一.家は代々海州邑内に住ひ、25年前信川に転し5年前更に鎭南浦に来れり。
信川に在住中は祖父の時代より両班にあらざるも、相当の資産ありし為め無職業にて暮せり。
祖父は鎭海郡守、父は進士迄進みたり。
然るに父は5年前死亡せり。
其の死する9年前、天主教の信徒として観察道20余日捕はれたる事あるも、獄死等為したるにあらず。
祖父(自伝によれば安仁寿)の代から両班では無い、と。
代々海州邑内に住んでいたという事は、在京両班から在地両班(郷班)になったという事でもあるまい。
官職を失った事を指して、祖父の代から両班ではないと述べたと考えるのが筋なのだろう。
ここで少し寄り道をして、安重根の祖父について触れている史料を見てみよう。
内部警務局長松井茂から陸軍少将明石元二郎への、1909年(明治43年・隆熙3年)11月12日付、『高秘収第6488号の1』である。
安重根及亡父安泰勳の経歴は、既報の如く性行暴悪を極めたり。
而して泰勳の亡父即ち重根の祖父は、黄海道海州郡邑に於て米商を営み、常に米穀買入代金を支払はざる等種々奸悪手段を為したる為め、世人其本名を呼ばず、安億乏と異名せり。(億乏とは日語の無理を意味すと)
斯きて財を起し巨富を致したりと。
惟ふに重根の粗暴は、系統より出るものにあらざるなき乎。
尚其親属に対する経歴、左の如し。
(以後、安重根の親族の経歴により省略)
・・・。
この『高秘収第6488号の1』の内容の真偽については、両班が実業を為すという点に於いて、いささかの疑念はある。
逆に定根の供述通り、両班ではなくなったから米商・・・ってのはやっぱり無理があるだろうなぁ・・・。(笑)
これに類似する状況が『韓国誌』等にも見られるとおり、李朝末期の両班層としてはあり得る話なので始末に悪いのである。
黄海道信川郡青溪洞に居を移したのは、他の史料と照らし合わせても1884~5年というのが正解だろう。
8月9日のエントリーで取り上げた、『憲機第2116号』の明治27年(1894年)という時期は誤りであるようだ。
とすれば、自伝に書かれているとおり、その転居の原因は甲申政変の可能性が高い。
祖父が米商をしていたのがバレて転居及び泰勳も進士止まり・・・ってしつこいか。(笑)
次に、父安泰勳が1895年前後に天主教の信徒として捕らわれたとの定根の証言。
時期的に、キリスト教を理由として捕縛されたとは考えづらい。
であるならば、8月9日のエントリーで扱った、『安応七歴史』中の魚允中及び閔泳俊との国庫米に関する争い、若しくは『憲機第2116号』における年貢米略奪の話に関連しての逮捕の事であろう。
尚、どちらの史料についても、逮捕されたという記述は無い。
今日はこれまで。
調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)
調書に見る安重根(三)
調書に見る安重根(四)