今日は昨日の予告どおり、1909年(明治42年)3月24日付『憲機第626号』の引用から。


煙秋方面に於て偵察せしめたる情報、左の如し。

一.李範允は、目下煙秋の自宅に在り。
而して1月14日浦鹽に至りし件は、彼の部下31名煙秋西方約1里「バアツウノヱ」に於て、商人の金20円を奪取せしに因り、全部煙秋裁判所に於て判決を受け浦鹽に護送せられたるを以て、之を免罪せしめん運動の為なりしも、不成効に終りたりと。
李の現今の情態は、部下31名を犯罪人とし、之が所置に苦み、所持金なく、殆んど袖手無策の有様なりと。
而して或時は、愚民に対し甘言利説を以て募金せんとするも、一般人民は彼を犬吠と称して聞く者なし。
1月下旬(日不詳)夜12時頃、住所氏名不明の男一人李範允の家に到り、李の在否及管理事務の主宰者等を尋ねたり。
此時李は不在にして、部下柳允菴、朴善生、李の親戚者1名房内に在りて、李の不在なる旨答へたるに、彼は忽然として侵入し、前記3名を乱打降伏せしめ、遂に金50円と若干の衣類とを奪取し立去りたると。
此時柳允菴は僅に負傷したりと云ふ。



前回の図們江での戦闘以降、李範允も振るわなくなってしまったようである。
部下31人が強盗で捕まり、且つ李範允も金が無く、助ける術も無く、募金を募っても犬吠と呼ばれ、馬鹿にされ、自宅には押し込み強盗が現れて金を奪われる。
嗚呼・・・。


二.崔都憲の態度及彼れ銃殺云々の件
1月24日、崔が露人「アルボウス」の店より夜間帰途に於て、一銃声ありしを以て、暫時状況を窺ひつつありしに、再び一発彼の近傍路側に着弾せり。
故に崔は驚き、急駈帰宅し、家族に右状況を話したり。
依て負傷又は銃殺等の風説起りしならんと。
崔は現今浦鹽にあり。
其の要件とする処は、夫の大東共報が、財政困難の為め停刊せざるを得ざるに至りたるを以て、之が救済策協議の為め赴きたるものにして、未だ帰宅せず。
崔の部下たりし者、煙秋「シヤチーザ」(煙秋北方1里)に30名、又「シヤンペリ」(煙秋北方約1里半)30名在りしに、崔は此等に対し、衣食住共に関係せざるに至りたるを以て彼等は労働者となり、或は乞食同様となり居るものありと。
故に早晩四散は免がれざるべしと。



崔都憲は、本名を崔才亨と言い、烟秋では屈指の富豪だった事が、別の報告書において報告されている。
また、彼はどうやらロシア国籍を取得していたようであるが、5月12日のエントリー及び5月13日のエントリーのとおり、大韓帝国人であることに変わりは無い。

尚、この報告の少し前に、崔都憲の持ち家である同義会の附属家屋が延焼。
従って彼等の部下はあちこちに点在する事となったようである。


三.洪範道が煙秋へ到りたる理由は、昨年12月以前、洪が甲山に在りしとき、有為の部下たりし金忠烈に金1,600円を渡し、銃器弾薬購買の為め煙秋へ遣はしたるに、金は該金全部を酒肆青楼に費消したりと。
依て洪は、金忠烈を捕ふべく煙秋に到りたるものにして、目下金忠烈を告訴せんとしつつあり。



しかし、しょっちゅうこんな話を見かけるなぁ。
第三次義兵運動とやらが、竜頭蛇尾で終わる理由も分かるというもの。
ちなみに洪範道は、金を持ち逃げされた影響かどうかは不明だが、糧食にも困る有様となり、12人の部下全員が彼の元から逃亡している。


四.2月15日、煙秋に於て一心会なる会を組織したり。
会員中には賊の頭目金起龍、安応七等あり。
依て諜者は其日傍聴せしに、会規は阿片禁止と会員の災難に際しては互に扶助す可きこと等にして、別に暴徒に関する件は非らざりしと。
因に入会費金は、1人1円なりと云ふ。



はい。
これが前回記載のあった一心会の報告です。
禁止するための会が出来るほど、煙秋で阿片が流行っていたのかどうかは不明。


五.暴徒駆逐の計画
浦鹽在住の崔鳳俊、金学万及煙秋の金国甫等協力し、各村有志者に事を計り、身元不審の輩及無職の雜輩を駆逐す可く運動中なりと。

六.煙秋附近一般の賊情
前記の如くにして、水青より来煙せしもの30余名あり。
内16名は嶺間(煙秋北方約2里)に在り。
又李京化の宅に4、5名あり。
崔行倫の宅に朴春成あり。
崔五衛将方に安応七あり。
而して10名位は居処定まらず。
朴春成、安応七、韓起洙は、目下活動の主唱者なるも、崔鳳俊、金学万の為めに妨害せられ、尚ほ人民の反対を受けつつありと。

七.水青附近の頭目朴春成(水青人)の語る処に依れば、水青の「シユテウホ」に於て暴徒が人民の牛馬金銭を奪取せし為め、昨年12月24日、人民と暴徒争闘を起し其際富豪朱哥なる者は死せり。
爾来、水青附近の人民は全部暴徒に反対するの状態となり、為に暴徒は、将来最も頼寄るべき部落、即ち根拠地を全く失ふに至りたると。



朴春成らは、例の『日帝強制占領下親日反民族行為の真相糾明に関する特別法』には該当しないのかな?(笑)
まぁ、このように内実が内実なので、ロシア領内であってもどんどん協力者は減少し、反対者が増えるわけです。


 安重根


それでは次に、安重根の素行や犯行動機などの調査に当たった、境喜明警視の1909年(明治43年・隆熙3年)11月5日付の『復命書』を見てみよう。
これも、かなりの分量なので、数日に分けて掲載していく。


復命書

隆熙3年10月28日伊藤公爵殺害事件に付、加害者安重根の内地に於ける罪状系統及平素の行動等調査の為め、平壌地方へ出張を命ぜられ、同日出発31日迄同処滞在。
11月1日鎭南浦に至り、翌2日帰京。
此間両地に於ける取調の概要及重根の母趙氏・弟定根・同恭根・金文奎の口供を添へ、左に及報告候也

隆熙3年11月5日
警視 境 喜明
警務局長 松井 茂 殿


○ 別紙

一.平壌に於ける安重根
重根は、弟定根の口供にも在るが如く、平壌に於て「三合義」なる組合様のものを組織したるも、其中の一人たる宋秉雲は、重根の人物猛悪にして、共同事業を経営するの危険なるを慮り、遂に出資せずして中止したるより、重根は大に立腹し、抜刀威喝を加へて2,000円の違約金を徴求せんとして手形迄認めさせたるも、他に仲裁する者ありて漸く無事なるを得たりと。
宋は今尚彼の乱暴なりしを悪み居れり。

又彼は、西北学会の一人として安昌浩等と提携し、演説を試みたることある等の事跡に徴すれば、彼の性格は虞るべき人物にして、一方には日韓国の現状に不平を抱く一味の徒たるが如く認めらる。



西北学会については8月2日のエントリーで若干触れているものの、未だ調査をしていない団体である。
今後関連の史料が出てくれば、紹介する事もあるだろう。

「三合義」は、連載初回で既に言及している「平壌に出で石炭商を営みしも失敗し」の話であり、『安応七歴史』においては、「平壌に往き石炭鉱を開採す。日本人の阻礙に因って損害すること数千元。」の件である。 【画像】
この後に出てくる安重根の弟安定根の供述によれば、この復命書の方が、断然信憑性が高いようだが・・・。


今日はこれまで。


調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)
調書に見る安重根(三)