今回は、のんびりやっていくので多分長くなる&一回やって飽きてる部分もある(笑)ので、中飛ばしで他の話題を振る可能性もあるのでよろしく。(笑)
とりあえず今日は、前回尻切れトンボで終わった続きから。(笑)
明治40年3月、北間島にある天主教主神父白某に依らんとし、神父洪錫九より書信を得、間島に至る途中京城に留り、中部茶洞金達河の宅に寄寓すること数月。
其間金宗漢・閔衡植・金世基の子某・李鐘乾・柳宗換(忠清北道黄澗のもの)・安昌浩(平壌のもの)・李東輝・姜泳璣(咸鏡南道利原のものにして西北学会支会長)等とを交結び、志士を以て自ら任じ、其間島に至るの諸費等は、前記姜泳璣・金東億(金達河の子)・閔衡植・李鐘乾等より支出し同年6月京城出発。
金東億と共に北間島に赴けりと。
北間島に於ては龍井村を以て根拠とし、今年10月頃より烟秋を経て浦塩・水青等に往復し、常に同志を糾合し其同類300余名に達し、其実力李範允・李範晋等を凌駕せりと。
結構詳細な記述になってきたが、この時1,500人前後の勢力を有すると報告されている李範允を凌駕というのは、かなり大袈裟な表現である。
列記された人物についても、京城での関係を示す公文は見つかっていない。
というより、この時期安重根又は安応七の名前自体を、史料上に見つけるに至っていない。
そして『安応七歴史』においても、北間島に向かう途上で京城に立ち寄ったという話はない。
明治41年7月、崔都憲の率ゆる同義会及李範允の率ゆる彰義会の同志等300余名と洪儀洞(新阿山附近図們江沿岸)に襲来せしとき、応七は同胞兵司令官鄭警務(鄭済岳字干淳元城津警務官)の右令将として、司令官鄭警務・左令将厳仁燮と共に我憲兵守備隊と衡突したることあり。
当時郡守使丁李德七なるもの賊の為め拿捕せられ、擔夫として賊に使役せられ此戦闘に参加せしに、德七は賊の荷物を背負ひたる儘我軍に遁れ帰りたり。
而して其荷物中、賊徒の結義録、同盟録、旅行券等あり。(別表記載中の姓名あり)
この、使役されていた李德七が逃げだし、結義録、同盟録、旅行券等を持ってきた話は、恐らく1908年(明治41年)8月3日『韓憲警第929号』で報告のあった話と思われる。
(混乱を避ける為に、ちょっと色替で引用)
報告
咸興憲兵分隊会寧分遣所の報告によれば、会寧郡守より同郡龍城社長の許に出したる使丁1名は、7月15日賊徒の拉去するところとなり、会寧に於ける日本軍隊の情況を鞠問せられたる後、賊の人夫として使役せられたるも、7月19日午後、我守備隊と衝突交戦中賊の隙を窺ひ、首魁崔冀興の荷物を負ひたる儘逃走。
会寧に帰着せり。
依て該荷物を検するに、衣類・毛皮・書類等にして、賊徒結義・同盟・及旅行免状等あり。
同書類は、賊魁元陸軍参尉崔冀興の所持せるものにして、其他賊巨魁李範允・李範麟・李潤等より同人に宛てたる書面あり。
其要領は、目下金銭糧食に欠乏せるも他日回復の時期あるを以て、暫時欠乏に堪ゆる様部下に説諭せられたし云々とあり、旅行免状は別紙写の如し。
尚、賊情に関し同使丁の談によれば、賊徒総員約300名にして、皆執銃し、服装は斥候任務の者約40名は浅黄色の衣袴を着し浅黄手拭を冠り、其他は茶褐色衣袴を着し同色の手拭を冠せり。
首魁は長刀を携帯せるも、他は銃器のみを携ふ。
而して銃器は多く、露国式五連発なりと。
賊徒は各地に於て拉去せる人夫20余名を率ひ、内3名には衣類弾薬醫櫃を脊負はせ、各自脊負袋に糧食・弾薬を入れ居れりと。
若干固有名詞は違うものの、時期といい内容といい地域といい、恐らくこの話で間違い無いものと思われる。
また、賊徒、所謂義兵の服装が記録されており、なかなか面白い報告である。
微妙な差異については、どちらの報告が誤っているのかは不明である。

義兵とされる写真(撮影年月日不詳)
図們江附近での戦闘については、前後を含めた概要はアジア歴史資料センターの『第6号 韓駐軍 図們江の暴徒に関する渡過参謀の報告の件(レファレンスコード:C03022934000)』において見る事が出来るが、戦闘詳報は見つけることが出来ていない。
一方、『安応七歴史』に於いても、東学党討伐においてはあれほど詳細に書かれているにも係わらず、この戦闘自体に関しては殆ど記述が無い。
【画像1】 【画像2】 【画像3】 【画像4】 【画像5】
場面の初っ端に、捕虜の処遇の話が出ている。
そこでは軍人についてはまだしも、「商民」も捕虜とされているのである。
この戦闘は、日本の守備隊が攻撃されたものであり、「商民」が指すのは、本質的な意味の商民と考えて良いだろう。
これが事実なのか、自己弁護の為の作り話かは兎も角、非戦闘員である伊藤を殺害しておきながら、捕虜としての扱いを要求するという、彼の言う「万国公法」の認識に繋がっているのではないだろうか。
若しくは、より単純に、こうして捕虜を取り扱ったから自分もそのように扱えという、自己弁護の為だけの話である可能性も無いわけでは無いのだが・・・。
応七は、常に浦塩・烟秋・水青にある同志、李相・(咼の上にト)・鄭順萬・奇山道・李範允・李範錫・田明雲・朴主善・崔鳳俊・崔基興・金相萬・李瑋鐘・金國甫・李京化・崔行倫・朴春成・韓起洙等と相往来して気脈を通じ、烟秋にありては国民会及一心会なる阿片禁止会を組織して同志を結び、又浦塩に於ては金起龍・厳仁燮等と同義会なるものを組織し、崔都憲(烟秋に於て露国官憲の用達をなし居るもの)を会長に推し、金起龍・厳仁燮等と共に青年者の頭目となり、甞て「スチーブン」暗殺の報至るや膝を打ち大声歓乎し、当時の加害者張仁煥・田明雲等の挙を敬慕し、直に寄附金を募集送付し、又我に軍資を供給せば必ず日本軍を苦るしめんと揚言する等、過劇の言動を常とせり。
而して、目下崔都憲に属する部下は、約500乃至1,000名に達せりと。
応七は非凡の腕力を有し、平安・黄海及露領に於ける常に腕力に依りて勢力を有し、衆に畏敬せられあり。
昨年同志4名(氏名不詳)と共に「ノウキエフスキー」に於て前統監の暗殺を誓ひ、各自左手の無名指を切断せることありと。
最近の情報に拠れば、李範允及李相・(咼の上にト)は、金策の為め目下上海にありとも云ふ。
而して範允は、前皇帝の馬牌(勅旨を奉じ居るの証)を所持すとの聞へあり。
今国内国外の連絡を示せば、別表の如し。
(別表は各地方の排日党の名称のみにより省略)
この報告では4人とされている断指同盟については、以前のエントリーを見て貰うのが、尤も手っ取り早いであろう。
安の自白では、12名になる筈なのだが・・・。
一心会の話や李範允等のこの時の状況に関しては、1909年(明治42年)3月24日付『憲機第626号』に報告が見られるが、長くなるので引用は明日行う事とする。
また、スチーブンス殺害事件及び李範允の所持していた馬牌に関しては、そのうち別途連載するつもりなので、お楽しみに。
今日はこれまで。
調書に見る安重根(一)
調書に見る安重根(二)