小さい話のつもりだったのに、何だか長くなってしまったなぁ・・・。
事件後の経緯が、個人的に面白くなってしまったからなのだが。
では本題。

宋秉畯の辞職が正式に発表されたのは、2月27日であった。
1909年(明治42年)3月1日付、『憲機第468号』より。


忠清南道公州郡より入京したる韓人の語る処に依れば、同道一進会員等の多くは現今同会に対し不平を抱懐せり。
会員等の言を聞くに、数年前一進会創起する当時、我々は唯宋秉畯の指揮の許に集まり、会員中には会費供給の為め自己の財産を潰したるものあり。
或は家族を離散せしもの多く、韓国内の官吏は一進会員を任用し、韓国を文明にするとの宋秉畯の言論は、今に至って宋に欺かれたるものなり。
而して彼は大臣の位置に在るも、会員は暴徒に殺され、生命すら保つ能はず。
李会長は如何なる故か渡日後帰韓する模様なく、又宋内相は皇室不敬の罪を負ひて是又渡日し、部下我々が何に因って本会の命脈を保ち得るか。
我々一同は是れより解散し、各々適当なる職業に従事するの外なしと、解散説盛んなるより、他道同会員等にも解散せんとの噂ありと云ふ。



この時期、一進会の会長である李容九も渡日していたようである。
リーダー不在の状況で、対抗組織から攻撃を受ける。
そりゃあ不満も出たのかもしれない。

一方で、別な見方をする報告もなされている。
1909年(明治42年)3月2日付、『憲機第485号』より。


一進会に於ては近頃大韓協会の、頻りに宋秉畯を大罪人かの如く激烈なる攻撃をなせしに関し、其名誉回復の為め、各道支会員の上京を待ち、西大門外独立館に於て大韓協会攻撃の演説会を開催せん協議中なりと云ふ。


名誉回復の為に、大韓協会攻撃の演説会を開催。
んー、相変わらず「声闘」から抜け出せないようで・・・。
まぁ、現代ですら抜け出せていないので、仕方ありませんね。

この二つの報告、どちらが正しいのか不明であるが、恐らくはどちらも正しいのだろう。


さて、今回の事件に関して、当初は圧倒的に正しい立場だった大韓協会。
宋が辞任してしまうと、今度は徐々にその批判の枠を広げていく。
1909年(明治42年)3月3日付、『憲機第489号』。


大韓協会に於ては、曩日法部大臣が韓皇西巡の際、宋・魚の争闘の現場に於て宋の不法行為を現認しながら、法相の職に在て宋を其儘に棄て置くは、其職責を盡くさざるものとす。
依て其無責任なることを演題として、近日中激烈なる演説会を為さむことを計画中なりと云ふ。



まずは法部大臣であるにも係わらず、宋に処分を下さなかったとして高永喜への批難。
次いで3月5日付『憲機第503号』より。


明6日、大韓協会に於ては評議員会を開催し、総理大臣李完用、宮内大臣閔丙奭、法部大臣高永喜の三大臣を論駁し、以て辞職を勧告し、若し之れに応ぜざる時は、更に他の方法を執る方針なりと。


総理大臣李完用、宮内大臣閔丙奭、法部大臣高永喜の三人に非難が広がった。
この6日の評議員会の結果、政府に対して質問書が提出されることとなったようである。
3月8日付『憲機第521号』より。


大韓協会にては、3月6日重役及評議員会を開催し、左の要領の決議をなし政府に質問書を提出する筈なりと云ふ。

一.前内部大臣宋秉畯が、玉車内に於て抜剣したる事件に就き、当局者は彼を処罰するものと思惟せしに、単に依願免官に止めたり。
右は、其罪軽るからざるものあれば、宜しく法規に照し、懲戒処罰を加ふる所あるべしとの意味にて、飽迄問罪せんとす。

以上



依願免職では足りないので懲戒処罰しろ、と。
大韓帝国の法体系の詳細が不明であるので、この意見が正しいのかどうかは不明である。
しかも、相変わらず「抜剣」した事になってるし。

上記三つの史料を見るに、やはり政争に利用されている感も無くはない。


今日はこれまで。


宋秉畯・魚潭争闘事件(一)
宋秉畯・魚潭争闘事件(二)
宋秉畯・魚潭争闘事件(三)
宋秉畯・魚潭争闘事件(四)