宋秉畯と魚潭の騒動に始まり、それを切っ掛けとした大韓協会の尤もな批判。
ところが、その箍が次第に外れていく、というのが前回までの流れ。
それでは、早速1909年(明治42年)2月16日付『憲機第358号』より。


2月13日午後8時頃、中部貞慶民団会に於ては会長以下約100名余、大韓協会の事務所に集合し、会務処理に関する協議をなし、同9時より約2時間に亘り、鄭雲復演説を為せし由なるが、大要左記の如し。

左記

「現政府大臣中には、逆賊の行為を敢てする者3名あり。如此輩は、今に於て其位置を去らしめざれば、将来如何なる蛮行を演ずるなきを保せず、故に極力渠等の討滅策を講ぜざるべからず、且つ李址鎔・兪鎮賛の両名は、博徒30余名の首領となり韓国刻下の情勢を不顧、只管賭博にのみ耽り、座ながら他人の財産を取らんとの賊心を抱き居る如きは、之れ豚犬に等しかるべし。斯る輩は、人種として遇するの価値なし云々」と頗悪罵を試みしと云ふ。



しかし、「之れ豚犬に等しかるべし。斯る輩は、人種として遇するの価値なし」ですか・・・。

この演説の行われた1月13日と言えば、私の誕生日・・・ってちがーう!
前回扱った『憲機第333号』において、鍾路青年会館で大韓協会の集会が開かれた日である。
その際も鄭雲復が演説している筈なのだが、同じ集会なのか違う集会なのかはよく分からない。
まぁ時間的に見れば、違う集会ではあるのだろう。
ちなみに鄭雲復は「帝国新聞」の社長である。

ここで述べられている逆賊3名は、宋秉畯・李完用とあと一人は誰であろう?
後に史料で糾弾されているのは、閔丙奭や高永喜、尹徳栄等であるのだが、その内の一人だろうか。

さて、李址鎔がこの頃賭博にはまっていたという噂は、史料で確認が出来る。
1909年(明治42年)1月4日付『憲機第2号』より。


李址鎔
右者、近来殆んど賭博に耽り居る由なるが、集合場所は同人の別邸在龍山江亭にして、敵手は朴義秉・鄭寅國・閔泳采等の輩にて、李は之れが為め、近来少なからぬ失敗を来し、目下金策に窮し居れりとの説あり。
以上。



 李址鎔


この時の李址鎔は内閣に居たわけではないが、中枢院顧問ではあったらしい。
勿論ここで言う中枢院は、朝鮮総督府の諮問機関の中枢院ではなく大韓帝国における中枢院であるのだが、いまいち詳細な権力や活動範囲が不明である。
しかし李址鎔は兎も角、決して中枢院とて遊んでいたわけではないようだ。
1909年(明治42年)2月19日付『憲機第387号』より。


先般韓皇帝陛下北巡の時、内部大臣宋秉畯及待従武官魚潭が口論せしとの件に関し、元主事李愚烈なる者、2月17日、中枢院に献議したる要領、左の如しと。

名分を正しくし、紀綱を立つるは万古に亘り天下を通じ家国の典経なり。
故に子にして其父を知らざるものは、大不順大不孝なり。
人臣にして其君を知らざる者は、大不敬大不忠なり。
不孝不忠者は、法を以て律に照らすは、斉家治国の順序なり。
曩に大駕西巡あらせらる時に、玉車に至近の所に於て、所謂内部大臣宋秉畯の行悖は犯分蔑綱に関係あり。
白昼抜刀酔酒乱嚷は、巷閭の不学輩も之を行せば法懲を免がれず。
況んや玉車陪従の側に在て行ふ。
彼は、人類に足らざるは全国人民の知る処なり。
大駕還郷の日、直ちに政府より如何なる処分あるかを思ひ居りしが、何等の沙汰なく国朝五百年崇礼尚義の紀綱が今一朝にして無くなりしが、当局諸公を以て談ずれば、親日党の罪悪を掩護し、勢力に阿附せんとす。
斯の如くは皇室尊厳の意味、何処にかある貴院の職務は言議の枢要に在り。
此の無君無臣の大変を見て一言せざるの、何事を待って斯く出ずるが、名分の掃地と君権の頓墮哉。
此を思へば自ら心寒に堪へず、敢て愚見を陳ふ。
閣下は院寮を同会し、内閣に建議し、天陛に奏聞して宋秉畯を懲戒し、我皇室を尊崇するを希望す云々。

以上



まぁ、長々と書いてるわけだが、要約すれば君臣の分をわきまえずに不敬を行ったのだから、宋秉畯の懲戒処分を内閣に建議しよう、という話。
ところが、この建議は棄却されてしまう。
1909年(明治42年)2月20日付『憲機第405号』より。


宋内相、魚侍従武官口論の件に付、李愚烈外1名より中枢院へ建議したるが、同院にては特別会議に附したる上、一昨18日内閣に廻送せし由なるが、内閣よりは該建議書を同院に返却せしと云ふ。


建議書は、こうして内閣から返却された。
前回の大韓協会の建議に続いて二度目である。
次回は、この続きから。


今日はここまで。


宋秉畯・魚潭争闘事件(一)
宋秉畯・魚潭争闘事件(二)