今回の連載は、今日でおしまい。
元気よく行ってみましょう。(笑)

1909年の『軍部廃止、親衛府新設及之ニ附帯スル件』で解散となってしまった武官学校。
その様子は、アジア歴史資料センターの『統監府 武官学校生徒解放の状况に関する件(レファレンスコード:C03022970600)』に記されている。(2画像目3画像目より)


武官学校生徒解散の件

今2日午前9時、校長陸軍参将李凞斗は生徒を同校内に召集し、職員立会の上、今回武官学校廃止の結果、生徒を解散する旨を宣言し、且つ来9月10日迄には更に何分の通知を為す筈に付、其間自宅に在り待命すべしと指示し、一同異状なく解散せり。
生徒の総数は45名にして、其半数は前途の方向に付遅疑せる旨報告する処ありしが、其後44名迄は日本に留学を希望するに至れりと。
右及報告候也



この解散後、それら学生は日本の陸軍中央幼年学校へ留学したようである。
まずは、『旧韓国武官学校生徒教育方(レファレンスコード:A01200074200)』より。(2画像目より)


上奏写

曩に允裁を経て、旧韓国武官学校生徒を陸軍中央幼年学校に入学せしめ教育中に有之候処、同校卒業し得たる上は、士官候補生に準じ、引続き軍隊及陸軍士官学校に於て教育せしめ候。
右謹で奏す。



この件に関して、もう一件史料がある。
『旧韓国武官学校生徒教育の件(レファレンスコード:C02031421000)』である。(2画像目4画像目3画像目の順により)


教育総監へ御照会案

曩に允裁を経て、陸軍中央幼年学校に於て教育中の朝鮮人、同校卒業心得たるの上は、士官候補生に準じ、引続き軍隊及陸軍士官学校に於て教育致度、異存無之候■上聞に達し置くべく候也

右異議なき回答ありたる後

上奏案

曩に允裁を経て、旧韓国武官学校生徒を陸軍中央幼年学校に入学せしめ教育中に有之候処、同校卒業心得たるの上は、士官候補生に凖じ、引続き軍隊及陸軍士官学校に於て教育せしめ候。
右謹で奏す。


幼年学校在学朝鮮学生左の如し
本科1年 15名(45年5月卒業)
予科3年 33名(46年5月卒業)



陸軍中央幼年学校を卒業した後は、陸軍士官学校に進んだものも居るのだろう。
名簿を見ていないため確たる事は不明だが、恐らくこの45年5月卒業予定の本科1年15名の中には洪思翊が居たのではないだろうか。
尚、46年(現実には大正2年)5月卒業予定であった予科3年33名の中に、金錫源が居たのかどうかは定かではない。
増して、士官学校の卒業名簿にすら載っていない李青天(池青天)がこの中に居たのかどうかは、尚更定かではない。(笑)
【参考記事】

さて、上記2つの史料の作成された1911年(明治44年)には、大韓民国の軍人に関する史料も存在する。
『御署名原本・明治四十四年・勅令第三十六号・朝鮮軍人ニ関スル件(レファレンスコード:A03020891900)』である。
これによって、『朝鮮軍人ニ関スル件(明治44年勅令第36号)』が公布される事となった。
以降、数度の改正が行われていくのことになるのである。

さて、これまでの経緯を見るに、最も重要な点はやはり予算であるように感じられる。
以上、皆さんも少し考えてみてもらいたい、「韓国軍解散」でした。


(完)


韓国軍解散(一)
韓国軍解散(二)
韓国軍解散(三)
韓国軍解散(四)
韓国軍解散(五)
韓国軍解散(六)