梅謙次郎(一)
梅謙次郎(二)


1906年(明治39年)6月25日。
統監官舍において伊藤博文。



「改革の順序に関しては、既に諸君の参考のため自分の意見を明示したように、鉱山問題を解決し、その後人民の財産所有権へそれを及ぼすつもりである。
よって出発前の約束に従い、今般法学博士梅謙次郎という者に、当国のために盡力させることにしたので、遠からず当地に来着するだろう。
同人は現在、我が東京帝国大学法科大学の教授にして、嘗て自分の指揮の下に、久しく法律制定の事務に従事した者である。
当人は、日本においても最も有名であり、且つ学識ある法律家にして、その地位の高き者であるので、至極適任と認め、之を渡韓させる事とした。
同人到着の上は、兼ねて法部大臣及び度支部大臣の提議もあった事であるから、まず財産所有権を鞏固にさせるため、土地所有者に地券を交付することに関する法律を起案させ、その後、司法問題に移り、韓国の裁判制度の改正案を起稿させよう。
同人は、種々日本における用務を処分した上でなければ渡韓できないため、少し後になるだろうが、その指揮の下に調査に従事すべき属領は一両日中に到着する。」

これについて李夏栄法部大臣は、法部の顧問となるのか聞くが、伊藤はこれを否定する。
「法制調査の嘱託と称するようにしたい。
彼は日本でも勅任一等の位置に在る老人なので、決して顧問と称するような名義を欲しているのではない。
ただ、その専門に属する事務の調査を嘱託するが故に、喜んで之に応じたのである。
本人に対しては、別に俸給を支出する必要はないが、調査そのものは多少の経費を要するのは勿論であり、又俸給と称して定額を支給することはないが、韓国政府より多少の報酬は支出するべきだろう。」

伊藤のこの発言は、少し他の「顧問」に失礼な言い方だと思うが、どうであろうか?(笑)


さて、このようにして韓国政府から調査嘱託という形で韓国の法の近代化に参画することとなった梅謙次郎。
彼が、韓国政府諸大臣と初めて会ったのは、その次の『韓国ノ施政改善ニ関スル協議会』の行われた、7月12日のことであった。
但し、この時は会議前の談笑の中で紹介されただけである。
しかし、その協議会において土地所有に関する従来の制度習慣の調査研究について、話し合いがなされている。
伊藤の発言をそのまま引用すれば、「韓国ノ土地ニ関スル行政ハ、紊乱其ノ極ニ逹シ、之ヲ整理スルコト頗ル困難ナリト信ス」という状態であるため、「先ツ法律ヲ以テ、土地所有者ニ地券発給ノコトヲ規定セサルヘカラス。而シテ此ノ法律編纂ニ付テハ、土地所有ニ関スル従来ノ制度習慣ヲ明ニシ其ノ取ルヘキモノハ之ヲ採リ廃スヘキモノ之ヲ廃シ又新ニ規定ヲ設クヘキモノハ之ヲ設ケサルヘカラス」であった。

しかしながら、この当時の梅謙次郎は東京帝国大学法科大学の教授と和仏法律学校法政大学の総理兼任という、非常に忙しい状態であったため、韓国に長期滞在することが出来ない。
そのため、伊藤が「自ら大体の方針を定め、その後その部下の者を法條起草の任に当たらせる他はないだろう。」と述べ、これに対して、李址鎔内部大臣の「内部にも度支部にも適当の人物がいる。之を以って委員を組織し、梅博士の質問に応させることにしましょう。」という提案があった。
これを元にして組織されたのが、不動産法調査会である。
梅謙次郎は、この調査会の会長となることとなった。


本日はこれまで&ちょいと調べ物があるので、梅謙次郎は少しお休み。