昨日は、日韓議定書の締結日。

高宗の中立宣言と共に、非常に疑問の残る話ではあるのだが、アジア歴史資料センターにも、その過程は皆無。

WEB上でも、従来の通説「高宗の中立宣言を無視し、京城を占領。日韓議定書を無理矢理締結させた。」ばかりで、根拠が何であるのか、誰が誰とどんな交渉を行ったのか、さっぱり分からない。

こちらの大韓帝国の項目で、
「1904. 1月日韓議定書案がまとまる中、 1.23の調印を前に1.21戦時局外中立を宣言、調印は声明承認を条件にする。 2. 4御前会議で対露開戦を決定した日本は、仁川に臨時派遣隊を上陸させ、日本軍の韓国駐屯と韓国の協力を規定する 2.23日韓議定書を調印。」
との記述を発見したが、これも何等根拠が不明である。
よって、もう暫く調査してみたい。


さて、安重根である。
先日は、安の父である泰勲の「山東、上海等に一族で移住し、その後善後策を図ろう」という言に従い、山東、上海に向かった安が、またもフランス人神父の言に従い、「使命」の実現を決意した所までであった。

このことについて、独立記念館はどのように書いているだろうか?

中国の上海に渡り国権回復の道を探した

素晴らしい。
民族の英雄を守るためなら、トリミング&歪曲も辞さずのようだ。

それでは、復習も済んだ所で、一昨日の続きといこう。


1905年12月、安重根が上海から故郷に帰ると、父は亡くなっていた。
安はこれを聴いて痛哭し、気絶すること数回に及んだという。
このときから安は日常の酒を断ち、その期限を大韓独立の日までとした。



これが本物の火病というものか。
実は、身の振り方について相談した当時、泰勲は心身ともに疲労し、病気も極めて悪い状態にあった。
それを知りつつ長旅をしたにも係わらず「何故火病?」とは、恐らく聞いてはいけないのだろう。


明けて春3月、資財をなげうって学校を2ヶ所設立して青年たちの教育にあたった。
また平壌に行き、石炭鉱の採掘を始めたが、日本人の妨害によって損害を被ること数千元に及んだ。



この辺り、全く資料が無い。
学校の設立については、「三興学校と敦義学校を設立」とされている。
恐らくはカソリック系の宗教学校か、書堂の類の私塾だったのであろうが、詳細は調査不足である。

いずれにしても、安の家が相当な資産家であったことが伺える。
さすがは両班。
北朝鮮において安重根が評価されない原因の一つに、このようにブルジョアであった事があるのかも知れない。


1907年、伊藤博文が韓国に来て7ヶ条の条約を約定し、光武皇帝を廃し、軍隊を解散したので、韓国人2千万人の怒りが一斉に吹き出し、義兵が方々に蜂起して、砲火が各地に広がった。


韓国併合までの義兵闘争は、大きくわけて三つに分類される。

第一は、1895年11月頃から儒者らを中心に、東学農民軍の残党が加わった義兵である。

閔妃殺害事件、断髪令などがその理由とされているが、露館播遷の際に書いたとおり、切っ掛けは親ロシア派による策謀である。
もちろん、安重根同様に韓国の民族的英雄とされている殺人鬼の金九が、1896年2月に何の関係も無い陸軍中尉の土田譲亮を、閔妃の敵討ちとして殺害したとされるように、閔妃殺害事件の影響が無かったとは言えない。

しかし、『朝鮮ニ於ケル電線関係雑件 第一巻(レファレンスコード:B04011011500 96画像目~)』にも見られるように徐々に品位が堕落し、金銭での馴致が計画され、逆に金欲しさに暴徒に加わる者さえいるだろうと予想される始末。

一方、儒林の巨頭崔益鉉が、「吾頭は可断だが、此傍は不可断」と断固断髪を拒否したように、儒者は儒教の教えに基づき、断髪にこそ反対したのであった。

第二期は、安重根が上海に行っていた頃、1905年11月の第二次日韓協約以降に本格化する義兵運動である。

この頃も守旧派政治家・儒者が主であるのだが、西洋文明に一度触れてしまった民衆は、儒教的価値観の時代には戻れない事が明白になっていた。
そこで、儒教価値観の固守から、国家の独立は守るが西洋文明は受け入れるというように、運動の方向転換をするのである。

後日、詳細を記す事になると思うが、この時期の義兵闘争はほとんどが閔宗植と崔益鉉の運動に集約される。

そして1907年。
当時、日本の目指していたのは、日本と同様の立憲君主国家の樹立であったと思われる。
甲申政変、甲午改革と同様、そのまますんなり改革のレールに乗っていれば、恐らく併合は無かったであろう。
ところが・・・である。

財政改革で、王室費と国庫が分けられたからかも知れない。
予算制によって、好き勝手に使えなくなったからかもしれない。
喫煙までして協力した国債償還運動の寄付金が、誰かによって使い込まれたからかも知れない。

ハーグ密使事件という、国際社会にも完全に無視された愚行によって、高宗がそれをぶち壊したのである。
協約を破られた日本も激怒したが、当然、改革を進めていた李完用内閣も激怒した。
高宗の責任を追及し、退位に追い込んだのである。

これによって純宗が皇位に就き、さらに厳しい第三次日韓協約の締結となった。

第三次日韓協約には不公表の覚書があった。
その覚書の第三により、皇宮守衛の一大隊を除いて、韓国軍は解体されてしまうのである。
これにより、職を失った軍人が義兵部隊に合流し、全国に拡大した。
これが第三期義兵闘争である。

・・・長くなったので、今日はここまで。