日清戦争に前後して、親日開化派による朝鮮の近代化が進められた。
これが甲午改革である。
一般的には、金玉均ら改革派独立党による甲申政変(1884年12月4日)を受け継ぐものであるとされる。

 金玉均

1894年7月に内閣総理大臣となった金弘集の主導により、第一次甲午改革が為された。
金弘集は、穏健開化派であったものの、科挙制廃止、新しい官吏任用法の採用、銀本位新式貨幣制度の採択、議政府と宮内府の官制施行、新しい度量衡制度の採択など約210件の改革を断行した。

1894年12月、日本の肝入りにより朴泳孝が入閣し、第二次甲午改革が始まる。
その目標・柱となったのが、洪範14条(「旧韓国官報」開国503.12.12 西暦1895年1月7日)であった。

一言で述べれば、専制君主制から立憲君主制への移行である。
それぞれの条文を具体的に見ていこう。


第1条については、中国との宗属関係を完全に断ち切ろうという条文である。
江華島条約(1876年)で日本から独立国と認められたにも係わらず、中国朝鮮商民水陸貿易章程(1882年)で、直ぐに属国である確認をとらされるような国には、どうしても必要な措置であった。
また、中華思想に染まった儒者の排除も、意図されていたかも知れない。

 中国朝鮮商民水陸貿易章程

第2条は、高宗の長男である完和君を王世子(王太子)にしようとした際、閔妃が清に側近を派遣して、自らの息子拓(純宗)を嫡子として承認して貰うという、後継者争いにその根源があると思われる。

第3条は、王后・妃嬪・王族・戚臣による勢道政治・垂簾政治の排除を意図したものである。
勢道政治は、権力を握った”一族”が国政を欲しいままにする政治、垂簾政治は、女性権力者が、簾(すだれ)の内側から王に”助言”しながら、重要事項を決定する政治である。
いずれも閔妃は勿論、1800年代から朝鮮で行われてきた、腐敗の根源たる政治手法であった。

第4条も、国家財政を浪費した閔妃を特に意識したものだろう。

第5条は近代的な職官制の制定。

第6条は、それまでの徴税を担当する者が、いかに酷かったかを如実に現すものである。

第7条も第5条に準じる。

第8条については、国家財政が瀕しているときには当然の条文。

第9条は、予算をたてる事による計画的支出を念頭に置いたもので、これまた当然の措置である。

第10条は、観察使のように地方の行政権・兵権・司法権の全てを握る役職を、分権させるためのものと思われる。

第11条については、「百聞は一見に如かず」。
岩倉使節団を始めとして、日本においても力点の置かれた部分である。
実際、李完用はアメリカ留学しており、それを通して、他の朝鮮閣僚とは違う視点を身につけていたのであろう。

第12条は、近代的軍隊の創設を目指したもの。

第13条は、法治国家への転換を目指したものである。

第14条については、従来、両班という上流階級による科挙試験に頼っていた人事登用からの脱却を目指したものであろう。


いづれも、それまでの李朝政治が酷すぎただけであり、目新しいものは特にない。

しかも、甲申政変も甲午改革も、閔妃によって潰されてしまうのであった。