さて、昨日、一昨日と語ってきたが、その第三弾である。
今度は、1903年11月の事。

『韓国ノ借兵並同国皇帝露国公使館ヘ播遷等ニ関スル韓帝対露国公使間ノ行動報告一件(レファレンスコード:B03030410900)』によれば、高宗はフランス公使館へ逃げ保護を求めたが、これをフランス公使に謝絶されてしまう。
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『韓国皇帝仏国公使館ヘ播遷等ニ関スル韓帝対仏国公使間ノ行動報告一件(レファレンスコード:B03030411100)』によれば、1904年2月にも、宮中が物情不穏であるという理由で、高宗は仏館播遷の用意をする。
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李容翊、玄尚健等の計画であり、高宗は時局によって、何時仏館に逃げるか分からない状況であったとされる。


また、仏館播遷失敗と同時期に、韓国はロシアに保護請求をしており、これが承諾された旨の諜報結果及び、清国の公使から「清国は日本と歩調を一にする」と言われ、未だ死んでいない中華思想によって、それに同調するが如き様子が同時に記載されている。
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また、韓国の宮廷では親露派の李根鐸等の勢力が強まり、反対派は何もできず、高宗自身すら恐怖していたのである。
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そんな中、恐らくは親露派とロシアによって、韓露傭聘条約が結ばれた。
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第一 事変に際し露国皇帝は韓国皇帝の請求に応じ、露国の将校下士を派遣すること
第二 露国将校は、侍衛隊に属し、各大隊二名以上たること
第三 この約束は、侍衛隊のみならず、他の諸隊に及ぼすこと
第四 俸給及び旅費のこと
第五 露国人以外の者を用いざること

但し、ロシア公使はこの件に関して否認している。

この頃になると、播遷はトレンド(笑)になっていたようで、第十三号によれば「韓国の歴史上、国難に際して陛下を播遷せしむるは、臣下の一大忠義と認められる」とされてしまっている。
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第八十六号では、再度の露館播遷の計画の情報が、清安君よりもたらされた。
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当初の目論見であった「以夷制夷」は、こうして単なる臣下の勢力争いとなっていたのである。