翁と使徒の狐 

参考日本文化における狐WiKiPedia

冠稲荷神社拝殿正面上部の額を参照のこと

私はこの額の価値は高いと思っている。この額がこの神社

のすべてを物語っているように思われる。あまり他神社では

見かけない。重要文化財である。

右「鬼女」

能楽・黒塚-抜粋版 

https://www.youtube.com/watch?v=wikJu0O_7BY

能「黒塚」を見ると、鬼女は茶枳尼天そのもの

であることが解かる。

よって、「翁」の裏側は「鬼女」であろう。

 

古代、長老は政治、祭祀に絶対的権力者であった。

最大の使命は、村の墓所を守ることであった。墓所は

村民の帰るべきところであり、また生まれ来る場所で

もある。それは現代日本でも変わらない。村落共同体

の中核なのである。それを長年維持するためには、強

力な経済ネットワークが必要である。祭祀には莫大な

金額を投入する。古代社会程村長は、政治経済祭祀の

頂点に立つ存在なのである。別な視点で申し上げると

経済資源の循環と魂の輪廻循環が、村長の役割であり

自らも神仏あるいは、ミイラとなる覚悟が必要である

。それが古代集落の村長なのだ。それが「翁」と呼ば

れる正体である。

白滝神社 翁の舞

https://www.youtube.com/watch?v=ScBjMmnJN7k

翁の舞を見ているとゆっくりとした動作のからいきなり

大きな足踏みの音、時代を遡る程、人間は自然観察に

優れている。そう簡単には騙されない。そのような観客

を惹きつけて、超自然的なパワーを見せつけ、短時間で

人心を惹きつけるトリックがそこにはある。

古代において新技術の浸透には、そのようなプレゼンが

必要であった。たたら製鉄には金屋子神や月に桂の木が

関係している。それはキツネの技とも言われている
 

摩多羅神 頭上に北斗七星

左画像 摩多羅神と二人の童子 右画像翁と二頭のキツネ

よく似ている。キツネも人の魂をあの世に届ける裏方である

狐は化ける時葉っぱを頭に乗せる、よく見る絵がある。

葉っぱは紅葉し落葉となり、春に新緑となり世代交代する。

狐は人間の死に際と、誕生に関わっている。

葉っぱのフレディ―いのちの旅― 朗読 KumikoMatsukawa

 

摩多羅神とはタキニ天である。「経に云う。臨終の際その者

の死骸の肝臓を喰らわなければ、その者は往生を遂げること

は出来ないだろう」 

(1).人が亡くなるとき、摩多羅神=大黒天=ダキニ天である

この神が、死骸の肝臓を食べないでおくと、その人は往生で

きないのだという。

往生とは、

① 第一の誕生(母親の胎内からの誕生)、

⓶ 第二の誕生(大人となるために子供の人格を否定する体験

して、真人間として生まれ直すこと)成人儀礼、

③ 死は「第三の誕生」を意味している。そのさいには、人生

の蓄積された悪や汚れを消滅させておく必要がある。

摩多羅神を大黒天でありダキニ天であると断定するとき、仏教

の中に、仏教以前からの、新石器的(縄文的)な思考が、活動を

続けている。摩多羅神を中心とし理知的な仏教の体系とはまっ

たく異質な、一種の「古層」に属する思考だ。仏教の歴史は紀

元前数百年を遡るにすぎないが、こちらのほうはその百倍もの

長い時間を生きてきた人類の思考である。仏教の中に、古い思

考が生き続けている事実は、隠しておかなければならないこと

だった。一体、日本仏教史における仏教導入派と反対派の確執

とは何だったのか、新たな視点での分析が必要かも知れない。

 

(2).生と死は人間の心の感じることである。

「心」はほんらい過去も未来もない時間性を超越した純粋な

働きである。つまり、昨日の心も今日の心も同じ、繋がって

いる。死ねば心は、肉体を離れ魂となるだけである。これに

肉体がほどこされるとき、「心」は六つの知覚能力をそなえ

た具体的人間として生まれるのである。これを仮に「生」と

名付けている

。「たましい」に、空の働きが及ぶと(冥土からのお誘いが

来ると)、身体は、死んでいくことになる。

魂にとっては、生と死は連続していて途切れることはない。

物質界においても霊界においても、魂は同じものである。

このように知ることで、はじめて自らの「心」の中にある

仏生が顕れるようになり、生きるも死ぬも自在となる。

 現実の迷いの世界を生きる三界の凡夫のなんと悲しいこ

とか。いったん生まれたと云っても、無意識の欲望のままに

生きて、死の意味を知らないまま、むなしく死んでいくので

ある。

 

(3) 能楽における摩多羅神

芸能の守護神である「宿神」と同じ本質を持つものと考えた

のである。山本ひろ子はそこに「荒神」の概念が深くからん

でいるのではないか、とつぎのように推測している。 

 さて摩多羅神が「三毒即三菩提(さんどくそくさんぼだい)」、

「無明即法性(むみようそくほつしよう)」という本覚の理を

体現する尊とみなされるとき、荒神との接近が図られる。なぜ

なら、荒神もまた「無明」や「三毒」を本体とする尊であるか

らだ。 一、摩多羅神事、只是三宝荒神ト習フ也。是又三宝荒

神即三諦本有無明(サンタイホンウムミヨウ)即法性ナレバ、

元品(ガンポン)無明ハ荒神ト習フ間、誠以テ本尊トスベシ。

サレバ本山ニ摩多羅神ヲ最極大事ニ祭ル。修正ナンドモ慇懃ニ

山王祭事ノ根元トナシ玉フ、此謂也。所詮本覚法身ノ妙体ニシ

テ御座ス故也。随テ利生モ新タ也。(「玄旨重大事 口決私書

」)「元品無明(がんぽんむみよう)」をともに本性とするこ

とにより、摩多羅神と荒神は同体とみなされるわけだ。

 暴悪を退治するために忿怒の相を現わす荒神は、三宝を擁護

するのでまた三宝荒神(さんぽうこうじん)ともいう、正式の

経軌をも

たない荒神は、中世あってさまざまな像容と活躍をみせていくが、

「衣那(えな)」(胞衣)を荒神とみなす「衣那荒神」もそのひ

とつで、叡山では「是ヲ障礙神トモ、元品無明即荒神トモ云也」

(『瑜祗経 決抜書』)と解されている。

三宝荒神

三宝荒神は、日本特有の仏教における信仰対象の1つ。

仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離する佛神である。

Wikipedia

金春禅竹の『明宿集』は、猿楽の翁を芸能神・宿神(しゆくじん)

と説くが、摩多羅神と目されるこの翁は、また大荒神であると語っ

ている。(『異神』)

 

 荒神は、思考におさまることのできない「自然力」が荒神の本体

なのである。コントロールすることの難しい「自然力」は、荒神を

転換点としておだやかな、柔和な力に変化をおこす。荒神の持つこ

のような転換する力が、この神を摩多羅神に近づけている。ものごと

の境界に立って、境界の両面に広がる異質な力を相互に転換される力

をもっているのが荒神なのである。

摩多羅神は無数の転換点に立って、せわしなく転換の「わざ」を

おこなっているのが、摩多羅神なのだ。

 

摩多羅神と鼓の音

摩多羅神のもつこのような転換力を象徴しているのが、ポン、ポン、

ポンと、鼓の革から発せられるその打撃音は、音が発せられるたびご

とに、世界の様相をつくりかえていく。鼓の打撃音はひとつひとつが

特異点のようなもので、その特異点を境にしてさまざまな転換がおこ

ることを、人は鼓の音を聞く快感としてきたのである。

摩多羅神と鼓は、本質的なつながりをもっている。

摩多羅神のもつ境界性、転換力が、その手に鼓を呼び寄せているのだ。

ポン、ポン、ポン。そのたびに、「三毒」は「菩提」に、「無明」は

「明」に転換をおこす。そしてそのたびごとに、本覚論の語る

「煩悩即菩提」の真理が、音現象として出現をはたすのである。

 

「私が補足すれば、神社で柏手を打つように、音が邪悪な空間を

神聖な空間に切り替える。太鼓や弓の弦などの音、音が日常的

な空間を非日常的な神聖な空間に切り替えてくれる。」

 

もうここまでくれば、宿神=シャグジまではあと一歩ではないか。

胞衣であり荒神であり、ポン、ポンと飛び跳ねる音とともに瞬間

瞬間の転換をもたらしていく転換の神であり、異質な存在領域との

間に通路を穿って、神霊と人間が自由にことばを交わし合う神話の

空間を実現する宿神=シャグジ。この宿神は翁であり、しかも摩多

羅神でもある。

 

 しかし、宿神が包み込んでいる世界は、摩多羅神が

包みこんでいる世界よりもずっと広い。摩多羅神が

転換を促すのは、仏教がそのことに意識を集中している「煩悩」や

「三毒」や「無明」のことばかりであるのにたいして、縄文的な

「野生の思考」の思考である宿神にとっては、この世界を構成する

ありとあらゆるモノとコトにいかにして転換をもたらし、

よみがえりと刷新をもたらしていくかが課題となっているからだ。

  

 金春禅竹は『明宿集』を著した。

翁は宿神であるというテーゼを展開する。「宿神としての翁」

の視点から、神々と芸能の世界の全体を、統一的に解釈しなお

そうとする大きな意図にまで発展していった。

 宿神はこの列島上できわめて古い時代から生き続けてきた

「古層の神」の一形態である。共通の神の観念のつながりの中

から、宿神と呼ばれるこの芸能者の守護神はかたちづくられてき

ている。この「古層の神」はミシャグチの名前で、諏訪信仰圏

では独自な発達をとげた。その観念の形成を、藤森栄一氏はほぼ

五世紀頃と推測しているが、この推測はミシャグチ神の構成の

内部に、縄文的な要素と弥生的な要素がほぼ対等の力関係で共存

しあっていることが、今日に残されている信仰の痕跡からも、

はっきりと確認できるところからきている。

 

 ここでいう境界性は、地形的なものだけを意味しているの

ではない。諏訪信仰圏のミシャグチは多くが水源との関わり

をもっていることはたしかだが、この神をめぐる神話的思考

の内部に立ち入ってみると、それが「胞衣」のような胎生学

的オブジェに、強く結びつけられていたことがわかる。胞衣

は「子供がやってくる空間」と現実の世界との境界を包囲し

て、内部の胎児を守る働きをしている。

 

この膜状のものは、

霊界の力が現実世界に不用意にさらされて、傷ついたり汚染

されるのから守る働きをしている。またその膜は、荒々しい

霊性をひめた自然力に直接に触れているものであるから、

胎児を守る機能が失われれば、この世にあって恐るべき荒神

と化すのである。いずれにしても、この膜を境界にして

、さまざまな転換が発生している。「古層の神」の境界性とは、

そのような広くて深い思考を包み込んでいるのである。

 

 シャグジ神の痕跡は、東日本の広い範囲で確認されてきている。

その多くがいまでは八幡神社や熊野神社やさらに小さな小祠に

すがたを変えてはいるけれど、そうした神社の今置かれている

地形や環境を、過去の状態に復元してみるならば、そこがかつて

はなんらかの意味での境界性にかかわっていることが、はっきり

と見えてくるようになる。

 

 その猿楽芸のエッセンスを凝縮したものが、ほかならぬ「翁」

である。「翁」の舞いには、猿楽という芸能そのものの本質と

構造が、きりつめられた象徴性をとおして、端的に表現されて

いる。「翁」と宿神は同体であるという禅竹の思考は、まった

く正確である。猿楽芸そのものが、「存在の胞衣」ともいうべ

き宿神に守られた潜在空間の構造を、身体と音曲の表現として、

顕在化させようという芸能なのである。「翁」はその芸能の思

考構造じたいを、具体的な身体の動きとして、人の目に見せよう

というのだ。

この記事の大部分を中沢新一 氏のWeb論考より

抜粋引用させて頂きました。

  

私もキリスト教においては旧約聖書、仏教においては釈迦以前

の初期仏教の時代、および長いインドの神々の世界、日本におい

ては、諏訪に代表される縄文の世界が、初期日本仏教に大きな

影響力を与えているという立場なので、本当に参考になりました

。感謝申し上げます。

最後に

「幽霊の正体見たり枯れ尾花」

すると枯れ尾花「枯れたススキ」は幽霊の事らしい

上の画像から、ススキは祖先霊 ススキの側の団子は

穀物霊、ウサギは月の中のウサギ。ウサギは多産の象徴

霊界とこの世の往来をより良いものになることを祈るの

がお月見の様だ

Wikipediaより転載

上の画像は枯れ尾花、お月様、年老いた狐

枯れ尾花は種を風に乗せてまき散らす。

年老いた狐は女性に化けるという。すると

この絵は人間の輪廻転生を表している。

 

古来月は人々の生活の時を知る尺度となって

いた。農耕においても狩猟においても漁労

生活においても広く時を知る尺度である。

私も釣りが好きだから、タイドグラフ(潮見表

)と睨めっこ。釣り場に向かう時刻を決めていた

女性の方々には、特に多くの月に関する言葉

が使われている

月読命(つくよみのみこと)は月の神様

大国主のみこと更に遡ると、スサノヲの尊

古来日月伸はセットで考えられてきた。

スサノヲは海と黄泉の国を治めるように

命じられた。天照命は海から生まれ海へと

沈む。月が優先される時代において、日月

の一連の動作は黄泉の国においてなされる

出来事。日月伸はスサノヲであり、間に

日の巫女が居たのである。それが日巫女

である。祭司女王である。

掲載の絵は幽冥界の出来事である。

ススキの種は風に舞う。それは桜の花びら

が舞うように、人の命の舞うがごとく

死出の旅につく魂を形容したものであろう

同時に放出される精子にも例えられ、

狐は世代を超えて産み続ける女性に例えら

れている。月を仲介とする。人の魂の輪廻

転生が、この絵の中で描かれている。

ススキは男性原理に例えられ、狐は女性

原理に例えられている。古墳の上に稲荷

社が設けられるのは、古墳を臨月の女性に

見立てるからであろう。お月見とは将に

その幽冥界の出来事を体感する行事である