キィーマンズネットから転載
キヤノンの本当の生みの親、吉田五郎
現在、日本製のカメラは完成度の高い製品として世界で認められている。
といっても、日本製カメラ(もちろん当時は銀塩カメラである)が
ブランドとして成立したのは、ほんの戦後のことだ。
今回は、そんな初期の国産カメラの開発に尽力し、キヤノンの前身となる会社、
精機光学研究所を創業した吉田五郎氏(以下敬称略)を
キーマンとして紹介しよう。
吉田五郎は、1900年に広島県福山市にて誕生した。
小学生の頃から、身近にあったカメラを分解しては組み立てるという行為を
繰り返していて、それが発端でカメラに深い興味を持っていった。
そのため、旧制・福山中学校(現・福山誠之館高校)に入学したものの、
カメラへの興味から中退し、上京してしまう。
上京した吉田は、映画用の撮影カメラや映写機を修理する業者で働いた。
これがきっかけで、修理だけでなく映写機を映画関係者に納入する
というような仕事にも携わるようになってきた。
もちろん、当時の映写機は海外からの輸入製品が当たり前。
アメリカやドイツが主な輸入先だった。
吉田も業務の一環として、映写機やその部品を
海外に調達に行く機会がたびたびあった。
多くは上海のマーケットでの売買だったが、
あるときそこで出会ったアメリカ人貿易商が
吉田の人生を大きく変える一言を発したのだった。
その内容は──
「なぜお前は上海なんかに買い付けに来る?
お前の国、日本には素晴らしい軍艦や飛行機を作る技術があるじゃないか?
それだけの技術があるなら、カメラや映写機ごときを
作れないはずはないだろう?」──というもの。
そんな言葉に、吉田は発奮するのだった。
もともと手先は器用だったから、
入手したライカ製の一眼レフカメラをバラし、
その中身を研究して機構を把握するのは容易だった。
吉田は言っていた。
「どんなカメラでもバラバラに分解してみれば、
別にダイヤモンドが入っているわけじゃない。
真鍮とアルミ、鉄やゴムの部品で構成されている。
それぞれは大した物じゃないけど、
1つにまとまるだけでものすごい値段になる」
吉田は、カメラを製造する会社を起業することを決めた。
しかしそれには多額の資金がいる。
そこで吉田は、義弟にあたる妹の夫・内田三郎を頼ることに。
彼は証券会社出身で、当時の株で大きな収益をあげていた。
カメラには全く興味はなかったものの、
吉田の熱意にほだされた義弟は資金を提供し、
自身も参画して事業を立ち上げることになった。
1933年に東京・六本木の小さなアパートに
「精機光学研究所」が創立されたのだった。
創立にあたっては、内田の知人・御手洗毅も資金を提供し、
創業の翌年には内田の証券会社時代の部下・前田武男も事業に参画する。
吉田はひたすらライカのカメラを分解し続け、
その中身を図面にした。
その後、必要な部品の図面を東京周辺のさまざまな工場に
見せては加工可能なら調達するという手法で調達していった。
海外のカメラメーカーのように
一極集中で部品を作ることはできなかったが、
いくつもの工場の力を集結することで、
日本製のカメラの製造が始まったのだった。
その結果1934年、日本初の
35ミリフォーカルプレーンシャッターカメラとなる
「Kwanon(カンノン)」の試作品が完成した。
その製品名は、吉田が観音経の信者だったから。
ちなみに、専用レンズには
「KASYAPA(カサパ:釈迦の弟子の1人)」の名が冠されている。
吉田は試作品が完成した時点で、
雑誌・アサヒカメラに大々的に広告を掲載。
国産カメラの登場は大きな反響を呼んだ。
ところが、肝心の製品が完成しない。
もともとカメラに興味も知識もなかったが、
経営を主導していた内田は製造担当の吉田に
不信をつのらせる事態となった。
内田はツテをたどって、陸軍の光学兵器のエキスパートであった
山口一太郎を精機光学研究所の技術者として招聘した。
これで製品化が進む……と思いきや、
吉田と山口は性格が合わず、
カメラの設計・生産においても意見が噛み合わなかった。
その結果、なんと吉田のほうが
精機光学研究所を飛び出してしまうのだった。
吉田は「吉田研究所」を設立しカメラの開発を目指した。
吉田は「国産ライカを作った男」として
それなりに有名だったがカネはない。
資金を得るために以前携わっていたような
映画撮影機材の改造や修理を請け負う仕事を続けることとなった。
逆に精機光学研究所は、創立時に資金を援助した
御手洗毅が尽力したこともあり、現・キヤノンに成長するのだが、
今回のキーマンである吉田の話とはまた別の話である。
吉田は結局、自身でオリジナルのカメラを開発することはできず、
戦後になると精機光学研究所のライバルともいえる
光学精機社(後のニッカカメラ、現・京セラ)に技術協力した。
そこでそれなりの成果は生むも、結局そこからも撤退。
その後吉田は、「アキハバラデパート」で店員として働き、
もはやカメラ開発に関わることはなくなり、
カメラについて語ることもなくなってしまったのだという。
そして1993年に没している。
いま大企業となったキヤノンと吉田の関わりは、
起業のきっかけを作ったこと、
そしてその際の試作品を開発したことぐらいしか
なかったということになる。
実際のところ吉田は、キヤノンが市販した初めてのカメラ
「ハンザキヤノン」は、
自分が試作品のときに設計したボディではないと明言している。
しかしながら吉田が、いまあるキヤノンの創業に関わり、
国産カメラの基礎を築いたことは間違いない。
そして彼がかつて持っていた「国産カメラを作る」という強い意志こそが、
現在の日本のカメラブランドの礎になっているのだろう。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
私は、このキヤノン(株)の100%子会社で、
国内販売専門商社であるキヤノン販売(株)で
勤務していた経験があるので、他人事ではないエピソードなのだ。
(キヤノン販売は、現在のキヤノン・マーケティング・ジャパン)
入社時に、キヤノンの社史については教わったのだが、
この吉田五郎氏については、ほとんど教わらなかった。
後に社長、会長となった御手洗潔(元は札幌での産婦人科の医者)の
イメージアップのためか、吉田五郎氏のエピソードは
意図的に矮小化されていたのではないだろうか?
キヤノンの本当の生みの親、吉田五郎
現在、日本製のカメラは完成度の高い製品として世界で認められている。
といっても、日本製カメラ(もちろん当時は銀塩カメラである)が
ブランドとして成立したのは、ほんの戦後のことだ。
今回は、そんな初期の国産カメラの開発に尽力し、キヤノンの前身となる会社、
精機光学研究所を創業した吉田五郎氏(以下敬称略)を
キーマンとして紹介しよう。
吉田五郎は、1900年に広島県福山市にて誕生した。
小学生の頃から、身近にあったカメラを分解しては組み立てるという行為を
繰り返していて、それが発端でカメラに深い興味を持っていった。
そのため、旧制・福山中学校(現・福山誠之館高校)に入学したものの、
カメラへの興味から中退し、上京してしまう。
上京した吉田は、映画用の撮影カメラや映写機を修理する業者で働いた。
これがきっかけで、修理だけでなく映写機を映画関係者に納入する
というような仕事にも携わるようになってきた。
もちろん、当時の映写機は海外からの輸入製品が当たり前。
アメリカやドイツが主な輸入先だった。
吉田も業務の一環として、映写機やその部品を
海外に調達に行く機会がたびたびあった。
多くは上海のマーケットでの売買だったが、
あるときそこで出会ったアメリカ人貿易商が
吉田の人生を大きく変える一言を発したのだった。
その内容は──
「なぜお前は上海なんかに買い付けに来る?
お前の国、日本には素晴らしい軍艦や飛行機を作る技術があるじゃないか?
それだけの技術があるなら、カメラや映写機ごときを
作れないはずはないだろう?」──というもの。
そんな言葉に、吉田は発奮するのだった。
もともと手先は器用だったから、
入手したライカ製の一眼レフカメラをバラし、
その中身を研究して機構を把握するのは容易だった。
吉田は言っていた。
「どんなカメラでもバラバラに分解してみれば、
別にダイヤモンドが入っているわけじゃない。
真鍮とアルミ、鉄やゴムの部品で構成されている。
それぞれは大した物じゃないけど、
1つにまとまるだけでものすごい値段になる」
吉田は、カメラを製造する会社を起業することを決めた。
しかしそれには多額の資金がいる。
そこで吉田は、義弟にあたる妹の夫・内田三郎を頼ることに。
彼は証券会社出身で、当時の株で大きな収益をあげていた。
カメラには全く興味はなかったものの、
吉田の熱意にほだされた義弟は資金を提供し、
自身も参画して事業を立ち上げることになった。
1933年に東京・六本木の小さなアパートに
「精機光学研究所」が創立されたのだった。
創立にあたっては、内田の知人・御手洗毅も資金を提供し、
創業の翌年には内田の証券会社時代の部下・前田武男も事業に参画する。
吉田はひたすらライカのカメラを分解し続け、
その中身を図面にした。
その後、必要な部品の図面を東京周辺のさまざまな工場に
見せては加工可能なら調達するという手法で調達していった。
海外のカメラメーカーのように
一極集中で部品を作ることはできなかったが、
いくつもの工場の力を集結することで、
日本製のカメラの製造が始まったのだった。
その結果1934年、日本初の
35ミリフォーカルプレーンシャッターカメラとなる
「Kwanon(カンノン)」の試作品が完成した。
その製品名は、吉田が観音経の信者だったから。
ちなみに、専用レンズには
「KASYAPA(カサパ:釈迦の弟子の1人)」の名が冠されている。
吉田は試作品が完成した時点で、
雑誌・アサヒカメラに大々的に広告を掲載。
国産カメラの登場は大きな反響を呼んだ。
ところが、肝心の製品が完成しない。
もともとカメラに興味も知識もなかったが、
経営を主導していた内田は製造担当の吉田に
不信をつのらせる事態となった。
内田はツテをたどって、陸軍の光学兵器のエキスパートであった
山口一太郎を精機光学研究所の技術者として招聘した。
これで製品化が進む……と思いきや、
吉田と山口は性格が合わず、
カメラの設計・生産においても意見が噛み合わなかった。
その結果、なんと吉田のほうが
精機光学研究所を飛び出してしまうのだった。
吉田は「吉田研究所」を設立しカメラの開発を目指した。
吉田は「国産ライカを作った男」として
それなりに有名だったがカネはない。
資金を得るために以前携わっていたような
映画撮影機材の改造や修理を請け負う仕事を続けることとなった。
逆に精機光学研究所は、創立時に資金を援助した
御手洗毅が尽力したこともあり、現・キヤノンに成長するのだが、
今回のキーマンである吉田の話とはまた別の話である。
吉田は結局、自身でオリジナルのカメラを開発することはできず、
戦後になると精機光学研究所のライバルともいえる
光学精機社(後のニッカカメラ、現・京セラ)に技術協力した。
そこでそれなりの成果は生むも、結局そこからも撤退。
その後吉田は、「アキハバラデパート」で店員として働き、
もはやカメラ開発に関わることはなくなり、
カメラについて語ることもなくなってしまったのだという。
そして1993年に没している。
いま大企業となったキヤノンと吉田の関わりは、
起業のきっかけを作ったこと、
そしてその際の試作品を開発したことぐらいしか
なかったということになる。
実際のところ吉田は、キヤノンが市販した初めてのカメラ
「ハンザキヤノン」は、
自分が試作品のときに設計したボディではないと明言している。
しかしながら吉田が、いまあるキヤノンの創業に関わり、
国産カメラの基礎を築いたことは間違いない。
そして彼がかつて持っていた「国産カメラを作る」という強い意志こそが、
現在の日本のカメラブランドの礎になっているのだろう。
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私は、このキヤノン(株)の100%子会社で、
国内販売専門商社であるキヤノン販売(株)で
勤務していた経験があるので、他人事ではないエピソードなのだ。
(キヤノン販売は、現在のキヤノン・マーケティング・ジャパン)
入社時に、キヤノンの社史については教わったのだが、
この吉田五郎氏については、ほとんど教わらなかった。
後に社長、会長となった御手洗潔(元は札幌での産婦人科の医者)の
イメージアップのためか、吉田五郎氏のエピソードは
意図的に矮小化されていたのではないだろうか?