日本の男子女子諸君。料理童貞を卒業しようではないか。
料理未経験の俺が料理未経験の目線でレシピを投下していく謎シリーズとしていくつもりである。


俺は今留学中の身であるが、
イタリア人は男子も女子も料理が大好きである。というか料理できない人がいない。
そういう国なのだ。

郷に入っては郷に従えとばかり、いままであまり料理をしなかった俺も飛び込みでいろいろと作ってみている。そしてその結果、どうも料理って簡単なんじゃないかと思えてきたので料理って億劫だなと思っている諸君、俺のような例があるから重い腰を上げてみてはいかがだろうか。

と、いう啓蒙みたいな。


【ちなみに俺のスペック】

・23歳。男子大学院生。
・料理経験は野菜カットくらいしかない。
(厨房バイトの経験はあるが料理のいろはなんて教えてもらっていない)
・実家にいるときは料理は母に任せっきり、というか月に1日帰るかな、っていうレベルだが。
・普段は大学の研究室で冷凍食品の恩恵を授かっている。
・経験のある調味料、塩、コショウ、砂糖、トマトソース、オリーブオイル。


料理スキルについては結構典型的なタイプなのではないだろうか。
冒頭にも書いたが、調理初心者の目線で書いていくので、比較的読みやすくなるように努めたい。
また、失敗しているレシピもあるので留意されたし。


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※注意
調味料や具材等の計量は基本的にしていません。
基本的な考え方は、薄味で作っておいて、もし薄く感じるなら食べるときに付けたせば良いじゃない、という姿勢です。

いきなり何言ってんだこいつと思われましょうが、イタリア人のキッチンには計量カップがないのです。でも料理はうまい。・・・つまりそういうことだ。
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【サーモンのホイル焼き】

「具材」
・サーモン
・たまねぎ
・他好きな野菜


「調味料」
・塩
・コショウ
・オリガノ
・白ワイン
・バター


①玉ねぎを切る。みじん切りではない。なんかカーブになるように。

②マッシュルームをスライス。俺はあまり好きではないので薄くスライスしている。

②アルミホイルで船を作って、玉ねぎをまず下に敷き詰める。蒸すときに玉ねぎから美味い汁がたくさんでので、多めの方がよいかもしれない。次にサーモンをのせて、適当にマッシュルームを散らす。

③バターをのけって、白ワイン、醤油、塩、コショウ、オリガノを適当にまぶす。
薄目くらいで良い。足りなければ、食べるときに足せばいいのだから、という考え方。

④アルミ船をフライパンに入れて、水をホイル焼きの中に入らない程度投入。

⑤蓋をして15分くらい蒸す。確認して玉ねぎが食べられれば良いと思う。
サーモンが生焼けだろうが、日本人は寿司食ってるから大丈夫。




【ジャガイモと玉ねぎのトマトソース焼き】


※グラタン作ろうとして牛乳買い忘れたため作った適当料理。でもおいしく作れたよ!
だれか適当に名前つけてください。

※一人分
「具材」
・じゃがいも 1個
・玉ねぎ 1個
・マッシュルーム 1個
・正方形のチーズ 1枚
・卵

「調味料」
・オリーブオイル
・塩
・コショウ
・オリガノ

・トマトソース
・料理酒
・ブロード(イタリア版コンソメ)
・ケチャップ


※基本的な考え方。
トマトソースをベースに、オーブンで焼いた野菜を食らおう、というもの。



①じゃがいも、玉ねぎ、マッシュルームをスライスする。
じゃがいもは厚いと火が通らないのでは?と思ったので薄く切った。

②じゃがいものみ、レンジで加熱2分。こうすると柔らかくなるらしい。真偽は不明。

③トマトソースベースのソースを作る。
トマトソースに、料理酒、ブロード、ケチャップ少々を入れてかき混ぜる。トマトソースだけだと味気ないと思ったのケチャップ、ブロード、酒で味つけしてみた。

④加熱したジャガイモとその他野菜をボウルに開けて、オリーブオイル少し垂らして、塩コショウで味付け、オリガノで香りづけ。

⑤適当な耐熱容器(俺はアルミの箱みたいなの使った)に具材を入れて、ソースを入れて、卵をそのままポンとおいて、最後にチーズをちぎって散らして終わり。

⑥オーブン200度で30分くらい。ちょっと焦げたので、ちょうどいい時間を手探りで。完成。
やけどに注意。


次から写真のせるか。
ちょっと寂しいし。


※記事がクラッシュしたため結論だけ書き記す。

前述の記事で書いた命題について、現状の建築家ではできることに限りがあるとの見解を持った。
むしろ豊かさを追求するなら、都市計画的なアプローチの方がいいのではないだろうか。


また、豊かな生活を営む上で、時間のバランスと記述したが、単純にその長さだけで判断していいものかというのは疑問である。
何故なら、織姫彦星のように、たまの逢瀬で感じる幸福感は短い時間にもかかわらず、非常に高いものとなるからである。


時間があればもう一度書き記そうと思う。
あ都市、街の豊かさとは何か。
いや違うな、俺の目標は日本において、豊かな都市をいかにして創出するか、である。
もう少し広範囲にしよう。俺の目標は、豊かな生活を営める場を創出することである。

議論を進めるために、それぞれの言葉の定義を確認していこいう。
辞書的な意味は一番最後に記述する。

【豊かな生活】

豊かな生活とは何か。
なんて厄介な言葉なんだろう。
抽象的過ぎてどのように評価したらいいのか分からない。

いくつか例を挙げる。
まずは、自分のことについてだ。
私の考える豊かさ、とは、つまり自分が幸せな、満足しているといった意味を含む。自分、としたのは、豊かだと思う主体が自分であるからである。つまりこの感情事態きわめて主体的な、自分の周りに広がる環境の感想であるといえる。
感想は当然、同一環境下であっても十人十色で私と他人の間で違った来るものである。

また、自分の感じたことをすべて言語化して表現することは難しい。
なぜなら、無意識化においても人は影響されることがあるからである。※1
言語化された部分は、特にそれを強く自覚的に感じている部分、ということができる。ゆえにここでは、自覚的な鵜部分のみを抽出する。


・まずうまい飯を食えること。
・いい女としゃべること。
・自然に触れ合えること。
・好きな音楽きき、好きな映画、小説、アニメ、漫画を見ること。
・将棋を指す相手に困らないこと。

・上記すべてを自分の意志においてそれをする・しないにおいても自由に選択できるということ。


これが不足なければ自分としては満足である。
総括すると、自分にとっての豊かさとは、上記項目がこなせればいいわけである。
その資本となるのが、金と時間であろう。

金は働かねば得ることができないし、また働くと時間がなくなる。働くとその疲労回復のためにも時間を使う。俺はまだバイトしか経験がないが、社会人になれば週5で働くことになるわけだ。
いずれにせよ、

豊かさを享受するためには、金と時間が必要で
金を得るためには、仕事をしなくてはならず、
時間は24時間-(睡眠時間+仕事時間+疲労回復時間)より算出できる。
働いている間は豊かでない状態、とすることができる。


(ちなみに、この議論は前提として豊かさを享受するには金が必要だとしているが、
当然ながらこれは個人の価値観によって変化する。これはあくまで、俺の場合である。
例えば、美味い飯を食う、自然と触れ合う、ことのみで充足される人がいるのならば、もちろん金はかからないので、この前提は崩壊する。)


まとめると、豊かな生活とは
少なくとも俺の場合 ―健常者であり学生であり、なんら悩みがないという状況下において―

”自分のしたいことを享受できる時間と、それを得るために費やす時間のバランスが良い状態である、とできるのではないだろうか。


【場】
前述の豊かな生活を営む上での移動範囲、とすることができるのではないだろうか。

と他えば俺は朝起きて、スーパーへ行ったり大学へ行ったり、センターへ行ったりするわけだが、
その一週間あるいは1か月の行動範囲である。
目に見えるものも含めると、それなりに広範囲になりそうである。遠くの山々の山峰も含めるわけだからである。


私は現在修士一年、23歳だが、同じアパートに住んでるイタリア人は修士2年で26歳~27歳である。
教育機関における教育期間の差がもたらすものだと考えられるが、彼らを見てると1年2年のタイムロスがなんだ、という風に思えてくる。
日本では新卒採用にじゃないとならない、みたいな強迫観念じみた思想が定着しているが、これはいったいどこから来るものなのだろうか。
理由が知りたいものである。
私の趣味は将棋である。
留学していてもそれは変わらない。
やはり、面白い。

ふと、建築家は将棋の駒で言ったらなんだろうか、と考えてみた。
建築家の絶対数―ここでは建築家の数=事務所数とする―はハウスメーカーよりも格段に少ない。
しかしながら、時にはオリンピック競技や庁舎など威信を伴う建築を手掛けることもあり、その駒の価値は高い。
組織設計、ゼネコンの一流設計部も同等と言っていいかもしれない。

となると、やはり飛車や角だろうか。
(ちなみに玉はクライアントである。)


歩兵→住宅メーカー
玉→クライアント
飛車、角→建築家、有名設計部
銀、金、香車、桂馬→それ以外


ある一定の区画を将棋盤に例えると、任意の区画に飛車、角が設計した建築物があるのは非常に少ないと思われる。そのほとんどが無名のメーカーの有資格者が設計したものであろうということは想像に難くない。
ようは、街のほとんどがそういう人たちの手によって作られているのである。
一部分が、腕のある設計士のものである。

将棋では飛車や角などの強い駒よりも他の複数の駒の方が強いとされている。
例えば、
飛車1枚と桂馬1枚、銀一枚
角一枚と歩兵2枚、銀1枚 etc

なぜかというと、そちらの方が攻めのバリエーションが豊富だからである。
考ええる選択肢の幅が増えるのだ。

将棋の駒を設計士に例えているので、必然一人の建築家より複数の無名の設計士という図式が生まれるが、やはり建築家≦複数の無名設計、というには無理があるかもしれない。

いや、そもそも設計している対象が住宅なのか公共建築物かで変わってくるのだから、そもそもの命題が間違っているのだ。
条件を整理してもう一回再考する。



2016年10月9日現在

【はじめに】
ブログというのは当然読者がいると思うので、できるだけためになるような情報を載せていく所存である。ゆえに、最低限、不特定多数の人が読んで時間の無駄にならないように心がけたい。

①読んでて楽しいこと





【このブログについて内容】
ヨーロッパ各国の情報及び、個人的な建築に対する考察である。
建築専攻なもので、勉学の理由より後者は外せないのでもしかしたら少し退屈に感じるかもしれない。前者についての関心の方が高いのではないだろうかと愚考するものである。

①街や空間についての考察
②旅情報の発信
③雑談








【個人的な動機】

インターネットとどのように付き合っていくか。
一つ思い立ったので、凍結していたブログを再起動するに至った。

今まで情報を受け取る一方であったが、発信する側に回ってみようかと思ったのである。
リアルのつながりのないネットを私は今まで軽視してきたが、食わず嫌いは良くない・・・ということで。
facebookにしてもtwitterにしても、ブログにしても、アカウントは持っているが情報を収集するだけで、それ以上に使ったことがなかった。いわゆるROMという奴であるが、折角この時代に生まれたのだからもう少し踏み込んでみたくなったのである。

浅学ゆえの思い込み間違いなどあると思うが、ぜひ指摘してやってほしいものである。




先日は県の留学説明会へ行ってきた。

なんてことはない、奨学金の説明と留学経験者の体験談が語られた場である。
私の渡航予定の国へ行った人はいなかったが、なかなか有意義なお話を聞けたように思う。


留学景観者が留学希望者に向けて行う説明会であったので、来ている人の意識はみな高かった。
ほとんどが大学生のようだった。
質問タイムにはばんばん手が上がるし、皆しゃべり方は礼儀正しく、整然としていた。
見習いたいものである。

もしこれが仮に、留学するかどうか決めていない人を対象にした説明会だった場合、反応はどうだっただろうか。例えば、中高生など。

話がわき道にそれたが、いくつか興味深い発見があったので記したいと思う。


まず、留学経験者だが、以外にも女性の方が男性より1.5倍~1.8倍ほど多いと言うことである。
また説明会に来ている男女比もおおよそそのくらいか、それ以上であったように感じた。
海外で一人で荒波にもまれることは必須なので、なんとなく男子の方が多いのかと思っていたので会場に入った時の華やいだ雰囲気には少々驚いた。

次にお金の問題である。
説明会の後には留学経験者との懇談会があった。
同時に、奨学金の個別相談も設けられていたが、ほとんどの人がこちらに集まってしまうという状況になってしまった。
留学経験者の前には2~3人しか集まらないというなんだかさみしい状況となってしまったのだが・・・

まぁそれは置いておくとして、なるほど奨学金への関心の高さがうかがえた。ということは、お金の問題さえなくなれば、もっと多くの人が海外へ行けるのだろうか、とも感じたが・・・。



住みたいまち、住みたくないまち。
その違いはなんだろう。

例えば私の住んでいる街は、まぁ特にこれと言って魅力もない住宅街である。
駅の周りに飲食店やスーパー、本屋、ダイソーなどがあるのみで、それ以外は住宅街が連なっている景色が続く。

いわゆるベッドタウンというもので、住人は仕事へ行って帰って飯を食べて寝るだけの空間になってしまっている。実に無味乾燥とした暮らし方である。
住宅街であるのだから、外出してもさして興味を引くものがあるわけではないため、
まるで寝るためだけに帰ってきているようなものだ。

故に、住人の「街」に対する感情は「無」である。街に対する誇りなんてものは無い。
この現状は非常にまずい。
興味がない、無感情、というのはすなわち、自分にマイナスの影響がなければどうなっても良いという考え方につながるような気がするのだ。その延長線上に、住んでいる街への政治的無関心につながると私は思っている。

自分の住む町への意識の低さ、共同体への無関心さは「街」そのものをドライなものへとしてしまうのではないかと私は考えている。

無色

透明

素通りされるだけの街

どうしたら変わるだろうか。

私たちは様々なコミュニティに属して生きている。
例えば私を例にとって考えてみよう。

実家、学科、バイト、研究室、サークル仲間、留学仲間・・・・

このコミュニティの輪に「近所、街」といった要素は無い。
そういった要素を入れられれば、街に対する無関心さと言うのは無くなるだろう。

事例として、江戸時代の町割りが挙げられるだろうか。
中心に生活用水を組み上げる共同利用の井戸があり、その周りの家の人たちは皆、顔見知りであるのだ。井戸とその周囲の家にコミュニティである。

必要不可欠なものを共同利用することにより、交流が生まれる、というのは良くある話である。
会社のコピー機に並んでいる間に他部署の人としゃべったり、共有本棚で趣味の合う本仲間が見つかったり。

そのような景色が圧倒的に日本は不足しているのだ。
建築的に、そのような場を作ることは出来ないだろうか。
技術が発達した今、生活必需品はすべて家の中だけで賄えるし、近所の構築物構造物施設に頼らずとも生きていくことができる。便利な反面のデメリット。

全てを自力で賄えるようになると、周囲の環境との断絶度合いが大きくなっている。


総括

・住宅街には魅力がない。誇りがない、アイデンティティがない。
・日本人のコミュニティ意識に街の要素がない。
・共通して利用できるモノがあれば交流が生まれ得る。
・生活必需品を自力で賄えるようになった弊害。


まぁ、この辺りはよく卒業制作のテーマになっていると思うので調べてみようか。
昨日、今日と続けてイタリア語の教科書と単語帳が届いた。
Amazonは便利でいいね!

9月に迫る留学に備えて、イタリア語をやらねば、と思い購入したものだ。

春一杯はこれら2冊を片づける予定だが、独学で言語の習得なんぞできる物なのだろうか。中学高校と6年間やった英語ですら、日常会話がやっとな私にとってははなはだ疑問である。
ロサンゼルスへ行ったときにあまりの通じなさに、がっくり肩を落としたものだ。

あの時は、受験のためというなかなかモチベーションが上がらない学問の仕方だったが、今回は違う。

これは必要なスキルなのである。なにせ、イタリア人は英語をしゃべってはくれない。(日本人も英語しゃべれないけどね)
そんな環境下へ一年間放り込まれるのだから、イタリア語が喋れない=生活できないことを意味する。

私が物を覚えるときによく使うのが、

「自分がそれを学ぶ必要のある環境下へ追いやる」

ということが挙げられる。
Illustrator、Photoshop、Rhinoceros、Grasshopper、Revit architecture などなど
上げればすべて建築系のソフトなのだが、思い返せば似たような境遇で身に着けたものである。

逆に言えば、必要に迫られないと行動ができない、と言うこと同義であるので、必要に迫られなくても身に着けられるだけの根性を持ち合わせたいものである。

なんでこんな記事を書いたかと言うと、大学院の入学式である4月初旬まで教科書をやり倒すことを目標にしてみたからである。あらかじめ宣言しておけば、少しは私の三日坊主もマシになるだろうと仮定した。

つまるところ、これは一つの実験なのである。

4月頭にこの記事をみて頭を抱えることの無いように、精進していくつもりだ。
福島のいわき市の高校生の話を聞く機会があった。
少し驚いたので、書き留めておきたいと思う。

最初に断っておくが、聞いた話なので事実確認等、裏を取っている者ではない。
あくまでこのブログは、私の思考の掃きだめであるのだから。
というかすべての記事にこんな前置きを書いていたら面倒だ。このブログの見えるところにでもこの文言を後で追加しておこう。


さて、避難民には東電からの賠償金が給付されている。その子は一億円と言っていた。
いわき市の中では、その賠償金をもらっている人と、もらえなかった人に言い知れぬ「壁」みたいなものがあるようだ。
わだかまりと言った方がいいかもしれない。

というのも、賠償金をもらった人たちはその金をギャンブルに使ったり、ベンツ購入に使ったりと、自己の欲求を満たすためだけに使っている人がいるようだ。

まぁ、あくせく働いている横で、そんなことされたら誰だっていい気分になるものではない。

私はこの話を聞いて、あぁ人って愚かな生き物なんだなぁ、と思ったものである。


理想を唱えるその後ろで私腹を肥やしたり、自分のことを棚に上げて物を言ったり。
私もこれまで生きてきていろんな人を見ているので、本性というか浅ましさ、というものには耐性が出来ている。むしろ最近ではそれが本質なんだろうな、と思い始めているところでもある。

だから、そういった理想というか、人間のあるべき姿、みたいなものを上から目線で唱える奴を見るとついつい「本当なのかよ」と疑ってしまうい、ある種の嫌悪感を感じるものだ。


私自身が人間は浅ましい生き物、だと認識しているの、別にそういう人たちに説教をしてやろうだとか、そういう高尚なことは思ったりしないが、それでもなぜだか少し悲しい気持ちになったのは否めない。

うーん、私も相当に自己中心な生き方をしてきたので、なぜそういう感情がわいてきたのかは分からないが、なぜだかセンチメンタルな気持ちになったのだ。

裏切られた、という気持ちがあるからだろうか。

地震で被害を受けて同情していたのに、いざふたを開けてみるとベンツを乗り回している、というような話を聞いて裏切られた気分になったのだろうか。
あるいは、まだ、人間にはこんな素晴らしい面があるのだと信じたかったからだろうか。

人の性善説性悪説みたいな話につながっていきそうな雰囲気である。
私の興味のあるテーマだが、これらの思索を垂れ流すとキリがないので一先ずここで筆をおきたいと思う。