哲学者は、「狭く深く」「浅く広く」のどちらであるべきか?
大学の先生になって、哲学で食べてゆくのなら、もちろん前者。論文を書いて生き残るには、狭く深くが圧倒的に有利だから。
しかし、哲学で人間の生き方を追求し、その成果を人類に還元するのであれば、後者であろう。
多くの仕事は専門職なので、「狭く深く」が基本。しかし考えてみれば、私がやってきた広告の仕事は「浅く広く」であった。
これからも、浅く広く、哲学をやっていこうと思う。
哲学者は、「狭く深く」「浅く広く」のどちらであるべきか?
大学の先生になって、哲学で食べてゆくのなら、もちろん前者。論文を書いて生き残るには、狭く深くが圧倒的に有利だから。
しかし、哲学で人間の生き方を追求し、その成果を人類に還元するのであれば、後者であろう。
多くの仕事は専門職なので、「狭く深く」が基本。しかし考えてみれば、私がやってきた広告の仕事は「浅く広く」であった。
これからも、浅く広く、哲学をやっていこうと思う。
昨日はNHK-BSで『砂の器』をやっていたので鑑賞。もう、何度観たことか。
見終わったらあと、自分自身の宿命について考えてみました。
「たった一人の親、それもあげな思いをしてきた親と子だよ。秀夫、わしゃお前の首に縄、縄付けてでも引っ張ってくから」
私の場合は、この「あげな思い」というのが、映画とは随分違うのかも。
渥美清の出るシーンが、大好きです。
1. 「産婆」としての哲学者(ソクラテス的アプローチ)。答えを与えるのではなく、問いによって相手の中から考えを引き出すスタイル。
2. 「地図の境界線を描く」哲学者(カント、ウィトゲンシュタイン的アプローチ)。「人間は何を知ることができて、何を知ることができないのか」の限界を見極めるスタイル。
3. 「試み(エッセイ)」を続ける哲学者(モンテーニュ的アプローチ)。哲学を「完成された体系」ではなく、「個人的な試行錯誤の記録」として捉えるスタイル。人間臭く、親しみやすい。。フランス語の「エッセイ(Essai)」は元々「試み」という意味。
4. 「永続する対話者」としての哲学者(現代的・プラグマティックなアプローチ)。真理を固定せず、「現時点での最良の仮説」を更新し続けるスタイル。「このように考えると、より良く生きられるのではないか」という提案型。
私のスタイルは3番目。それにしても「エッセイ」が「試み」という意味だとは、この歳で初めて知りました。福永武彦の『愛の試み』は「愛のエッセイ」ということですね。
会社が続けて欲しいと言うので、来期も働くことにしました。
昨年の秋頃までは、とにかく時間が欲しい、1年くらい哲学に専念したい!と考えていましたが、最近少し気が変わってきました。
いま大切にしているのは、毎日を楽しむこと。それには、お金はあったほうが良い。あと規則正しい生活にしたいので、その為にも働くのが一番かなとも思っています。
ただ、バイトは辞めるので、哲学に割く時間は十分にあるでしょう。今年は急がずに、毎日を充実させることに専念したいと思います。
今月の100分de名著は、安克昌『心の傷を癒すということ』。先日の放送で、こんな一節が紹介されました。
癒しを必要としている人にとって、大切なことは、本人に前向きの意思を持ってもらうためのケアなんです。
これ、とても重要。「前向き」であることが、全てを解決するのです。
ところが、その「前向き」であることが、どのようなことなのかが漠然としている。そこが問題。
三元論では、それは左回りの志向性の好循環と定義しています。興味のある方は、お読みください。
山上被告の一審判決は求刑通りの無期懲役でした。これが妥当かどうかは、法の下の平等に従って判断されるべきでしょう。
すると普通に考えて、強盗などではなく、個人的な恨みが乗じて一人を殺害した初犯としては、厳しすぎるのではなかろうか。
銃を作って襲撃したから無期というのなら、公人を狙うと罪が重いということに近い気がします。
もちろん、これが判例となり、殺人に対する刑が重くなるのであれば良いことではありますが。
果たして控訴するのか。しなければ、これが判例となるので、今後が注目されます。
それは妙に侘しいかたちの雲だ。見るともなくそれを見ていると、耕作の心には、また耐えがたい空虚な感がひろがってくるのだった。こんなことを調べてまわって何になるか。いったい意味があるのだろうか。空疎な、たわいもないことを、自分だけがものものしく考えて、愚劣な努力を繰り返しているのではないか。 (松本清張『或る「小倉日記」伝』より)
哲学なんてやっていると、同じ思いに駆られることがあります。6年前のブログを読み返すと、この小説について、こんなことを書いていました。
「清張自身がそうであったように、私もこのようにはなりたくはありません。ただ、清張先生のような焦燥感がないのは、私には大した才能がないからに他ならず、たぶん、この小説の主人公ほどもないでしょう。しかし、この主人公よりマシではないかと自分では思っているのは、その対象です。私が取り組もうとしている課題は、例え私自身はその提起だけで終えようとも、きっと誰かが後に続くもの思っているからです」
当時の課題は哲学ではなく、ドリームゲーム事業の方でした。コロナ禍を経て、事業の方はいったん休止し、いまは哲学をやっていますが、もう才能がないなどとは考えていません。自分も随分と変わったものです。