1月24日の日経新聞の文化面に、「往来物」と言われる江戸時代の寺子屋の教科書を研究している人が寄稿していた。それによると、江戸時代後期の「餅尽(もちづくし)」の中では年中行事に沿って、「鏡餅」や「雛餅(ひなのもち)」などを説明した後で、「提灯持ち」、「女房の焼き餅」、「すべりてころぶが尻餅」などと語呂合わせの戯文(ぎぶん)に興じていたという。当時の寺子屋には遊びの精神があって、生徒達は楽しみながら知識を学んでいたのである。


今の学習塾にこのような精神が息づいているのかどうか私にはよくわからないが、少なくとも一昔前の予備校には生きていた。その頃ある予備校の英語の名物教師は、学生が質問に来ると、決まって「君は田舎の学生か?」と聞くのを常としていた。その教師が言うには、「spiritual food」という英語を読んだ時、田舎の学生「精神的な食べ物」と直訳するものだが、それは日本語としても意味が通らない田舎の訳だというのである。それでは都会の学生はどう訳さなければならないかというと、「心の糧」で、これが都会の訳だというのだ。名物教師は学生たちに都会の学生になれと励ましていたのだった。学生たちがどっときていたのは言うまでもない。


因みにその教師はいろいろなクラスで同じ授業を持っていたが、どこのクラスでも同じ箇所で同じ冗談を言っていた。テキストに「ここでこういう冗談を言う」と書き込んであったからである。笑わせながら覚えさせるのがプロの教師の腕であり、そのための下調べにたっぷりと時間を掛けていたのだった。


さて、2013年10月に、経済協力開発機構(OECD)が公表した「国際成人力調査(PIAAC)」の結果によると、日本は「読解力」と「数的思考力」の平均得点が、参加した24の国と地域のうちトップだったという。上位と下位の差が小さいのも日本の特徴だそうだ。つまり、わが国は他の国と比べると並はずれたお利口さんと並はずれたお馬鹿さんが少なく、平均的だというのである。これはわが国の強みでもあるが、弱味にもなり得ると私は思う。なぜなら、これからは私たちは地球温暖化の防止など決まりきった答えのない問題に敢然と立ち向かっていかなければならないからである。


前述した江戸時代の寺子屋では、「読み・書き・そろばん」だけでなく、封建社会で庶民が生きていくのに必要な知識や生活の知恵など、極めて実用的な職業教育を年齢別に目標を定めた上で行なっていた。


具体的には、6歳になると師匠・親・兄弟姉妹などの行動や世間の動きを自発的に見つめるように仕向け、観察力洞察力を涵養し、9歳までに公的挨拶の習得を目指し、立居振舞を体得させ、8歳で師匠の口真似、10では説教の内容の咀嚼が目安とされた。12歳頃には一家の主の代わりが務まる程度の事務作業能力を目指し、15歳頃には経済・物理・科学など森羅万象を実感として理解できるようになることが目標とされていた。


江戸時代の日本の教育は素晴らしかったと言われる所以であるが、今の日本の教育がこれを上回っているかと聞かれると、私にはあまり自信がない。安倍内閣は教育改革の一環として道徳教育の導入や大学入試改革を考えているようだが、私たちにはポテンシャルはあるのだから、改めるべきところは改めて自信を持ってこれからの世の中に役立つような有意な人材の育成に努めていかなければならないだろう。