1月8日の日経新聞の文化面に神谷美恵子さんについての話が語られていた。彼女は戦後の混乱期にハンセン病患者のケアに熱心に取り組んだ精神科医で既に物故して35年になる人だが、今年が生誕100年ということで注目されているらしい。彼女はまた語学が得意だったこともあり、哲学書の翻訳やエッセイの執筆などの文筆活動にも勤しんでいた。


神谷さんは、1957年から1972年まで岡山県瀬戸内市にあるハンセン病療養所「長島愛生園」で治療に携わったのだが、その時彼女の下で働いた後輩の医者が彼女のことについて語っているのである。それによれば、当時「愛生園」には1,500人ほどの患者さんがいたそうだが、神谷先生は外来診療が終了すると、往診のために島内を徒歩であちこち走り回り、請われれば香川県高松市の療養所まで足を運んでいたという。当時、兵庫県に住んでいた彼女は「愛生園」まで船で5時間もかかったそうだが、弱音や愚痴をこぼすことは一切なかったというのである。


私が特に感動したのは彼女が患者さんたちから慕われていたことである。具体的にどのような言葉を投げ掛けていたのかは語られていないのでよくわからないが、彼女の話には相手が喜びを感じ、清らかな気持ちになる不思議な力があったとのことで、こちらも彼女語り合っていると自然と幸福感に包まれ、「この時間がずっと続いてほしい」と思ったこともあったという。何と患者さんたちだけでなく、看護師や職員までが彼女の来園を待ち望んでいたというのである。


また、彼女は2人の子どもを育てながら、寸暇を惜しんで勉強に励み、著書や訳書を何冊もものにしている。当人は、「私はながら族のはしりよ」と言っていたという。


更に驚くのは、彼女が長島の万霊山に登山した時に、「もし許されるなら、私の骨もここに納めてもらいたい」と語っていたことである。それが診療に当たった医者としての患者さんたちに対する「お・も・て・な・し」ということなのだろう。


そういえば、フランツ・カフカがある著書の中で「世の中には優しい人が2種類いる。本当に優しい人と、一見優しそうに見えるが実際は優しくない人で、後者は特にだまされやすいので十分気を付けなければならない」と書いていたのを思い出すが、神谷美恵子さんは本当に優しい人だったのだろう。


また、海外の大学で講義をしていたある哲学者が、ある時期からある特定の学生が顔を見せなくなったのを嘆いて、「私は彼のあの柔和な顔が好きだった。何も言わなくても良いから、そこにいてほしかった」と語ったという話を読んだことがあるが、神谷さんは周囲の人たちから見ると、哲学者が学生の中に見たように、仏のような存在に見えたのだろう。


神谷さんのような生き方は、1人の人間の生き方としてきれいな人生と言えるのではないだろうか。