貧乏じゃなければ東大に行けた兄・染太郎
きょうは02年に亡くなるまで約60年間、ずっとコンビを組んできた兄・染太郎の話をさせてもらいます。
ボクらの父親は落語家で、本当はボクらをピアニストか舞踊家にしたかったらしいのです。ところが戦争に負けて予定が狂っちゃった。食えなくなった父親が考えたのが「そうだ、進駐軍に日本の伝統芸を見せたら珍しがってうまいものが食える」ってこと。で、染太郎が13歳の時、ボクらの師匠・海老一海老蔵のところに太神楽を習いに行かせたのです。ボクはまだ小さかったから習うわけじゃなくて、染太郎のカバン持ち。ところが、やってみたら、ボクの方がすぐにうまくなっちゃった。染太郎、悔しかったと思いますよ。すぐに兄弟コンビとして新宿・末広亭でデビューし、当時、マネジャーみたいなことをしていた父親は「両方とも同じことができるんです」なんて売り込んでいたけど、明らかにウソでした。それに、染太郎は「もし貧乏じゃなかったら、東大に行けたんじゃないか」ってぐらい勉強のできる人だったのです。
いつの間にかボクが肉体労働、染太郎が頭脳労働担当となり、「これでギャラは同じ」「いつもより余計に回していま~す」なんてしゃべりが受けるようになってからも、悔しさは変わらなかったと思います。
外からは「仲良し兄弟」に見えたかも知れませんが、本当言うと、ずっと兄弟喧嘩は絶えませんでした。だって、ボクが「あんたは楽でいいな」なんて言うと、染太郎は「何を!」っていう具合でしたから。
でも、染太郎が亡くなって初めて分かりました。コンビって仲が悪いぐらいの方がいいのかなって。ボクは染太郎に負けまいとして芸に取り組んできたし、長いうちで2、3回だけ染太郎が「おまえはうまいなぁ」と褒めてくれたことがある。ボクの芸は染太郎に磨いてもらったようなものなんです。
◆えびいち・そめのすけ 1934年、東京生まれ。戦後間もない頃から、2歳上の兄とともに「海老一染之助・染太郎」の曲芸コンビを結成。「おめでとうございま~す」の賑やかなフレーズで正月テレビの常連に。02年に兄・染太郎が亡くなってからも一人2役で伝統演芸・太神楽の普及に努めている。
ゲンダイネットより
二人でやっていたのが片方かけて初めてきづくんだろねぇ。