この夏には義母の死があり、

さらに数人のブロ友さんのご親族のお別れが

続き、父母とのお別れの事を思い出す

機会が増えています。

 

**以下、人によっては気持ちが悪いと感じるかも

知れませんので、遺体を「怖い」と思う方は

お読みにならないでください**

 

今日はネットニュースで、ガレッジセールの

ゴリさんが、ご自身のお母様のご遺体に

48時間添い寝した、という記事を読みました。

「亡くなった母の遺体に48時間添い寝した」ガレッジセール・ゴリ「幼少期は甘えた記憶がほとんどない」(CHANTO WEB) - Yahoo!ニュース

 

48時間添い寝。


実は、私は母の死後、遺体を自宅の母の部屋に運んでもらい、

使っていた布団に寝かせ、葬儀の前日までの4日間、

毎日隣で寝ていたのです。

病院の霊安室で丸一日、病院のスタッフさんとの

お別れを一通り済ませた後の事です。

 

子供のころからすれ違い。母子家庭だった時も

私は寮生活、自宅に戻っても朝起きたら母はすでに仕事、

帰ってくるのは私が眠ってから

母の再婚後私は父の元へ。

再び母との同居が叶ったのはもう晩年だった。

 

母が倒れてからは殆ど入院生活だったし、母と同じ部屋で

寝る機会は殆ど無かったのです。

埋め合わせが出来るわけではないですが、遺体となった

母が家に戻ってからは多くの時間を側で過ごしました。

時期は5月でした。毎日葬儀屋さんが冷却のための

ドライアイスを取り換えに来られました。

 

母の顔に布がかかっているのが厭で、布を取って

眺めていました。母のエンジェルメイクは私が病院で

もらった簡易なエンジェルメイクキット 

(100均でも売っていそうな安っぽいものです) 

施したもので、メイク下手な私のせいで、

評判の美人だった母の顔は台無しでした(ホントごめん悲しい

 

今思うと、遺体の保存環境としては良くなかったと思います。

表情が日に日に変わってしまいましたから。

でも、少しでも長く側に母を感じていたかったんです。

 

ゴリさんが48時間側にいただけでも記事になるということは

ご遺体との添い寝は珍しい事なのかな?

大体、今の時代は自宅にはおかないのかな?

 

父の時も遺体は家に運んでもらいました。

私が結婚してからも金銭的なことや女性関係で

家族を裏切ってきた父。許せなくて父の生前私の自宅に

あげたのは家を購入した時のただ一度だけ。

父は私の家に来たかったのです。

望みを受け入れたのは死後となりました。

 

父の時は一切の葬儀はせず直接斎場での読経とお見送り

でしたが、病院の霊安室→葬儀社の保管を経て、

斎場へ向かう前に自宅に移しました。

斎場へは自宅から向かいました。

 

二人とも、急なことでまったく準備ができておらず、

また、偶然どちらも主人が出張・旅行で家にいなかったので、

私が一人一晩寝ずに家具や荷物を隣の部屋に突っ込んで

スペースを作りました。火事場の馬鹿力です。

まあ、慰問客もいないので、できたことですが。

 

流れていく時間の中ご遺体を見つめていると

死がだんだん現実化していきます。

それとは知らずに私はそんなお別れをしました。

 

 

    

急な秋の訪れ。暑さから解放され、ようやく好きな季節を満喫できる

 

 

それなのに、私の頭の中はちょっと隙が出来ると

義父問題でどんよりしてしまう。

長い間尊敬し感謝してきた相手から愛されなくなった。

自分の生きている意味が30%くらい減ってしまった

気がします。すべてを放り出したい気分になります。

 

一方、このところ行き来させていただいていた

ブログの方のお母様がコロナ肺炎で急逝された記事を読み、

ご自身の体調もぎりぎりのなか急なお別れということで

胸が痛みます。そして、自分の母の最期の事も

思い出します。

 

今はもういない母だけど、愛してくれたし私も愛したなあ。

それは今も宝物。

義父の愛はひとつ減ってしまった。でも、それが全てでは

ないから。

 

秋の気配、旅の記憶、友人との時間、親戚との交わり。

そして音楽。

肉親、家族の愛に勝るものはないけれども。

今日生きる喜びを探して、なんとかやっていきます。

旅行中、南の海で自分もまるで透明な

生き物になったような海に溶けるような時間を

過ごしました。

 

そんな経験を書く前に、幸せな記憶を

真っ黒に塗りつぶすような投稿になります(スミマセン)。

 

主人は約束通り私の旅行中に、義父に、

なぜ私に冷たく当たるのか問いただしてくれたそうです。

 

最初は否定した義父、食い下がる主人に話したことは。

義母の見舞いで義実家で過ごす間、私がスマホを

見ていたことが気に入らなかったそうです。

「娘」としてもっともっと義母に寄り添って欲しかったが

義母をほったらかしているように見えたそうです。

 

私はスマホの外国語習得アプリにはまっていて

毎日一時間くらい勉強しています。

 

義実家へは毎週末、4時間から6時間滞在していました。

それが、1年近く続き、私もだいぶ「飽き」が

来て緊張も緩んでいたと思います。

 

義母のすぐ隣に座って過ごす長時間。

ずっとお喋りを続けるのも限界があるし

義母も疲れて転寝。

そんな時にちょこちょこアプリを使っていました。

それでも、義母が目が覚めれば話しかけるし、

義母が立ち上がったり、行動したい時はすぐに

サポートしていました。

そして、そばにいるだけでも自分が役に立っている

気分でいたのです。

 

対し、義父は殆ど自室で横になり、

私と義母の姿を観るのは食事時以外は

トイレに立つわずかな機会だけ。

その一瞬見た姿を切り取り、不満を募らせて

いったのです。

 

もともと負けん気が強くて、人に構われるのが

大嫌いな義母ですから、過剰に構ったら逆に

気分を悪くする。だから必要と感じた時だけ

手を貸す以外は、話し相手に徹していました。

それで良い、と自分に都合よく手を抜いていた感は

あります。

 

ですが、義父の感情までは思いが至りませんでした。

 

主人と義父の話しに途中で帰宅した義弟も話に加わり、

「今更それで(私を)せめてもどうしようもないだろう」

と二人で諭したそうです。義母が存命中にひとことどうして

私に言わなかったのか、と。

そして、私が決して義母をほったらかしに

していなかったことも主人が弁明してくれたようです。

「とりあえず、次回からは普通に接してくれ」と

主人が言うと、義父は「わかった」と答えたそうです。

 

でも、私は望みを捨てました。

これまで、義両親からはずっと愛情をもらってきました。

崩壊家庭で育った私に、家庭の暖かさを教えてくれました。

その愛情は良い時も悪い時もゆらがないと思っていました。

しかし、一連の話を聞いて、私は義父がもう私には

愛情が無いのだな、と感じました。

 

主人は、衰えて身動きが付かなくなり、加えて思考だけは

明晰な老人が陥りがちな「ひがみ」が生んだ感情だと

いいます。それもわかります。

そして、私が義父の愛情や公平さに対して、過剰な期待をしていた

といいます。それは正しいです。

 

でも相手に強い不満を抱いた時、愛情がある関係であれば

修正をかけようとするはずです。それをただ突き放して

放置するのはもうその関係が壊れているから。

 

95歳、物静かだけど自分の考えにゆるぎのない義父です。

この先一年あるかもわからない自分の行く末を見定めて

暮らしています。その義父が一度決めつけたことを

今更変えられるとも思いません。

 

今義父と私が傷つけあわない一番の方法は、私が義父を

諦めること、というのが今の私の結論です。

もう愛情を期待しない事。理解や公平さを求めない事。

家族として幸せに過ごした過去の義父とは切り離して、

今は別人として表面のみで接することが残された道です。

あの優しかった義父こそ本当の姿だと思うから。