クラシック今日の一曲♪07/08 今日が誕生日「グレインジャー:リンカンシャーの花束」 | 名古屋クラシックカフェ♪~クラシック音楽を趣味にしたい人が集まるカフェ~

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毎日、連載でお送りしている「クラシック 今日の1曲♪」のコーナーです。
過去のその日にあったクラシック音楽のニュースに関連付けて今日の一曲をご紹介していきます。

今日、7月8日は、
オーストラリア生まれのピアノ奏者、作曲家である
パーシー・オルドリッジ・グレインジャー(1882年7月8日 - 1961年2月20日)
の誕生日。

1892年7月、10歳のグレインジャーはピアノ奏者としての最初の演奏会をメルボルンで開き、12歳の時には最初の演奏旅行に出ている。その後、1895年5月に母、ローズ・アニー・グレインジャーと共にドイツのフランクフルトへ赴き、ピアノ演奏と作曲を学ぶ。 1901年、19歳の彼は母とイギリスのロンドンへ渡り、そこで才能が開花した。この間に『植民地の歌』と『モック・モリス』が出版されている。

1907年の夏、ノルウェーのトロルハウゲンに作曲家、グリーグを訪ね(1843-1907)、彼の自国の音楽を大切にする心に民俗音楽への興味を引き起こされたグレインジャーは、エジソンによって発明された蝋管蓄音機を使い、イギリスを回り、民謡を歌い手らから収集し、また、それらの編曲も行った。グリーグは自らの指揮とグレインジャーのピアノによる演奏旅行を計画したが、実現の数週間前にグリーグが帰らぬ人となる。その後のグレインジャーは、グリーグのピアノ協奏曲を他の作品よりも多く演奏しており、また、グリーグの未亡人ニーナからは遺品の金の懐中時計を贈られている。

彼はピアノ奏者として、ドイツ、オランダ、北欧での演奏会を多く開いている。また、スカンジナヴィアやイギリス、ヨーロッパ大陸諸国の音楽家達との交際があり、その中には、ヴォーン・ウィリアムズ、ハーマン・サンドビー(Herman Sandby)、ディーリアス、シリル・スコット、バルフォア・ガーディナー、R.シュトラウス、エネスク、ドビュッシー、エルガーらの名前があった。

1908年、グレインジャーが26歳の時に、彼の最初の録音がグラモフォン社によってなされた。この年、彼は女子運動選手のためのブラジャーをデザインしており、また、翌年にかけては、オーストラリアの女性歌手、アダ・クロスリーとの祖国への演奏旅行がなされた。

指揮者、トーマス・ビーチャムに勧められグレインジャーがバレエ音楽『戦士たち』を書いたのは1913年から1916年にかけてのことである。

1914年 第一次世界大戦勃発 6月28日のサラエヴォでの銃声から世界は第一次大戦へと向かうが、その年の9月、32歳のグレインジャーはアメリカへ移住し、そこで終生を過ごした。この年、出版社シャーマーと契約し、翌1915年、ピアノ奏者としてニューヨークでのデビューを果たした。

1917年の4月、34歳の時に父が亡くなり、この年の6月に楽隊員として軍に入隊する。フォート・ハミルトンの第15歩兵団に配属され、ここでオーボエとサキソフォンの演奏を覚える。1918年にグレインジャーはアメリカ合衆国の市民権を得ており、代表作となったピアノ曲、『カントリー・ガーデン』はこの年に書かれている。1919年に軍を除隊した。

彼の音楽は従来の常識的な編成にとらわれず、大編成の木管楽器での合奏や、複数配置された合唱隊や打楽器、ピアノのための作品も4手や8手のものも書いている。主な作品は、ピアノの独奏、三重奏、四重奏等であるが、『カントリー・ガーデン』も例外でなく、大きな編成の木管合奏への編曲もなされた。この時期がピアノ奏者として、また、作曲家としての最盛期であった。身長約173cm、体重は約66Kg、ブロンドの髪を長く伸ばし、「走るピアニスト」と言われたように、階段を駆け上がり、演奏は町から町へ歩いて、または走って移動した。

1922年、彼の音楽的な才能を伸ばすため、ドイツ、イギリス、その後アメリカへ共に行動した母親が自ら建物から飛び降り、亡くなるが、彼は1928年に詩人で画家でもあったスウェーデン人のエラ・ストロームと46歳で結婚している。翌1929年、シカゴ市民歌劇場での『戦士たち』の演奏が、47歳のグレインジャーの指揮する3台のグランド・ピアノと最大編成の管弦楽によって行われた。

1932年から1933年にかけて、グレインジャーはニューヨーク大学の音楽学部長を務め、1938年、彼が57歳の時にグレインジャー博物館が開館した。彼は1941年に、エッセイ『如何にして私は菜食主義者になったか』を書いている。1914年以来2度目となるイギリスでのピアノ公演が1947年に行われ、1950年、68歳の時に彼は、アメリカのNational Institute of Art and Lettersから表彰された。

晩年 [編集]近代のエレクトロニック・シンセサイザーの先駆者とみなされている科学者Burnett Crossと共同して、Free Music machines(自由音楽機?)を創り出した。この前衛的な創作活動は1952年(70歳)暮まで続き、結局はシュトックハウゼンの作品が脚光を浴びることにつながった。

1953年(71歳) 腹部の癌の手術を数回受け、作曲活動は続けていたが、身体上はその後回復に向かうことはなかった。

1955年(73歳) 「性(Sexuality)」に関するエッセイを書くが、自分の死後10年間は公開しないとの遺言であった。

1961年2月20日(79歳) ニューヨークのWhite Plainsの自宅で前立腺癌のため死亡した。南オーストラリアの州都アデレードの家族の墓地に葬られた。

グレインジャーは極度に多忙な生活であったが、1200曲以上の作品と編曲を残しているのは驚くべき事である。

彼は、過去の偉大な音楽家として3人を挙げており、それはベートーヴェンと、ディーリアスと、デューク・エリントンだという。

そんなわけで今日の1曲は、
「グレインジャー:リンカンシャーの花束」をお届けします。
演奏 WISH Wind Orchestra 指揮 甲斐 誠でお楽しみください。

この曲は吹奏楽の優れたレパートリーを求めていた指揮者エドウィン・フランコ・ゴールドマン(en:Edwin Franko Goldman)の委嘱により、1937年初めに作曲された。

スコアに「ルーシー・E・ブロードウッドとパーシー・オルドリッジ・グレインジャーによってイングランドのリンカンシャーで集められたイングランド民謡に基づき、吹奏楽のために編曲された」とあるように、イングランド東部のリンカンシャー地方で採取された6曲の民謡を基にしている。5曲はグレインジャー自身が1905年から1906年にかけて蝋管式録音機を使って採譜し、1曲はイギリスの民俗学者ルーシー・ブロードウッド(en:Lucy Broadwood)が採譜した。

作曲にあたって、グレインジャーはその民謡を歌っていたそれぞれの歌い手の歌い方で再現しようとした。そのため不規則なリズムの変動や間延び、節回しを、変拍子や装飾音符を多用して描いている。





《今日のおススメの1枚》
リンカンシャーの花束(グレインジャー管弦楽曲集)/ラトル(サイモン)

¥1,300
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今日の1曲はいかがでしたか?
お気に入りの一曲になったら嬉しいです。
また明日もお楽しみに~

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