はじめに                 

 もう学校のことは忘れるはずでした。

 小学校教員として定年退職まで勤め上げた後、個人事業主という道を歩き始め、早一年の月日が経ちました。日々のユニフォームにしているスタンドカラーシャツにパーカー、そしてジーンズという姿がとても気に入っています。(しかたがなくスーツにネクタイという姿をした回数は、片手ほどです。)

 

 さて、私は生業として、「imacoco」という事業をしています。その事業を通して、子どもと親とみんなが「笑顔」になるお手伝いをしています。

 あるとき、「imacoco相談」をご利用いただいている方にある学校の「学校だより」を見せていただく機会がありました。その年度第一号の学校だよりには、こんな内容が書かれていました。

 

「前年度は、学校生活の様子は、HPや各学年だよりで十分に伝わるのではないかという考えと、紙資源の節約という観点から、『学校だより』は発行しませんでした。学校アンケートから、学校だよりは必要、なぜ発行しないのかという声もいただきました。HPに掲載することが難しい児童名を紹介することを中心に、過度とならないように発行していきます。ご理解ください。」

 

 書いてある内容は、よく理解できるのです。

 今の時代は、どの学校にもホームページがあって、そこにブログ記事を載せるようになっています。写真を効果的に使うと、行事の様子がよく伝わります。

 それに「地球の資源を守る」というSDGsの観点もありますから、情報発信をホームページに一本化することは意味のあることです。

 

 でも、わたしは思うのです。「学校だより」には計り知れない「大きな力」があるのだと。

 そのことをお伝えしたくて、「引退」したはずの「教育の世界」にちょっとだけ戻ってみることにしました。

 

 学校で起きる日々の出来事に真摯に向き合っている「現役」の皆さんからすれば、「何を偉そうに」という感想をもつかもしれません。その批判を覚悟で、わたしの経験を披露しますので、「学校だより love」のわたしの気持ちを受け止めていただければ、とてもありがたく思います。

 


第1章 「学校だより」わたしのスタイル

 

1―1 「学校だより」にどう取り組んだか

 

 わたしは、小学校の校長を二校六年務めました。一校目は、全校児童十六名の僻地校でした。行政職を二年挟んで、二校目は、全校児童二百名弱の旧市内地の学校でした。

 この校長職を務めた六年の間、わたしはあることを続けました。それは、何だと思いますか。

答えは、

 

「学校だより」を毎週1回は発行すること 

 

です。保護者の方に向けてA4判一枚の「学校だより」を基本的には金曜日に発行すること、を自分に課してきました。

 

「何だ、そんなことか」と思った方もいるかもしれませんね。

 でも、このたった一枚の「学校だより」を出すことは、それほど簡単なことではなかったのです。

 

「月曜日」はまだまだ余裕です。「学校だより」のことはまったく頭にありません。

「火曜日」あたりからどんな内容にするかを考え始めます。でも、まだ焦りはありません。

「水曜日」になると、そろそろ形にしなくてはいけない、と焦り始めます。何せ金曜日に配付するためには、木曜日には完成して、遅くとも金曜日の午前には印刷をしなくてはなりません。

「木曜日」の朝になっても何も浮かばないと、七転八倒の苦しみ(?)が始まります。絞り出すような感じで、何とか紙面を埋めます。

そして、「金曜日」。読み返して、文章を整理して発行します。発行すると、何とも言えない達成感を得ることができます。

 

 毎週が「綱渡り状態」で、そんなに自慢できるような状況でもなかったのです。

 皆さんの中には、「学校だより」を毎日発行している方もいるでしょうし、週一でも相当な分量を書いている方もいることでしょう。「すごい方」はたくさんいるのです。

 でも、わたしにとっては、これが自分に一番合う方法でした。

 週に1回はA4判一枚の「学校だより」を発行すること、これがわたしのMAXでした。

 でも、塵も積もれば何とやらです。合計で283号の「学校だより」を発行することができました。

 

「一校目」 一年目45号  二年目46号

「二校目」 一年目43号  二年目48号  三年目51号  四年目50号

 

 

 今読み返してみても、ありありと当時のことが蘇ってきます。わたしにとっての「日記」のようなものですね。

 でも、ただ出来事を記した「日記」ではありません。そのときどきの「校長としての思い」を保護者の方へと伝えた「手紙」のようなものでもあったのです。

*次回へつづく