桜色のインタルード8
あの夜、サクライさくらで検索し、導かれた先は1つのホームページだった
そのタイトルは、
『桜色』ーー
何故そんなタイトルがつけられたのか、僕はすぐにそれを悟った
このホームページの主役が、さくらなのだ
インターネットの世界には、通称ネトアと呼ばれる、主にネットの中で活躍するアイドルたちが無数に存在している
そのネトアにも様々なタイプがあり、テレビを賑わすアイドルたちを目標にする者、あくまでもネットの中での活躍に主眼をおく者、自己満足のためにやっている者、そして見られる事に意義を見いだす者など、実に多彩なタイプのネトアが存在していて、中には自分の裸体を披露する者さえいるのが実情だ
そして、この『桜色』の中で主役を担うネトアこそ、さくら本人だったんだ
おそらくは桜をイメージしたものだろう、ホームページは薄いピンクの色調で統一され、その上部には、全裸で照れたように微笑むさくらの上半身が、大きなフレームの中に収まっていた
その一番上に、可愛らしい丸文字で『桜色』の2文字
ホームページの中段から下段にかけては、別サイトのバナーが所々に置かれ、それに挟まれるようにして、いくつかのメニューが存在した
それを見た時の僕のショックを、どう表現したら良いだろうか
この年で女性の裸を見た事がない男はまずいないだろう
ただでさえ様々なメディアーー特に今はネットの普及により、四六時中女性のヌード写真を手に入れる事が可能となっているんだから
もちろん僕だってその例には漏れない
だから正直に言って、このネットの世界で女性の裸を見たところで、特別なんの感情も抱きはしない
おそらくは神経が麻痺しているんだろう、普段なら普通の景色を見るような感じで流してしまうのが常だ
でもそれは、裸の女性が見ず知らずの相手だからであって、それが見知った女性、しかも友達であったなら話は別となる
マウスの動きが止まってしまうのは、仕方のない事だと思う
そして、今回僕が見てしまったのが、まさにそれだった
最も長い時間友達として付き合ってきた異性ーー
その女性のヌード写真が目の前にある現実
誰が見ているわけでもないのに、僕はこの時、すぐに写真から目をそらしていた
心にぽっかりと大きな穴が開いたような気分だった
見てしまった事に、何か罪悪感めいたものすら感じていた
僕は高鳴る鼓動を感じながら、再びモニタに視線を戻した
もしかしたら、さくらによく似た女性なんじゃないのか…?
しかし、やはりその女性はさくら本人に間違いはなかったんだ
さくらの身体的特徴
右目の泣きぼくろと、鎖骨の辺りにうっすらと浮かぶ蝶を思わせるあざ
見まがうはずもない
もうかれこれ10年以上の付き合いなんだから
ああ、さくら…
僕はため息をつきながら写真を眺めていた
不思議な感覚だった
さくらの写真はギリギリ腰の辺りでカットされている
その胸には豊かで形の良い乳房
ウエストのくびれは見事な曲線を描いている
ふと、病室で抱きしめたさくらの体の感触が両手に蘇り、思わず吐息が漏れた
はっと気づいて目を伏せる
やれやれ、何を考えているんだ僕は…
僕は首を振って無理やり気持ちを切り替えた
しかし、それにしても…このホームページはさくらが作ったのだろうか?
ようやく冷静になれた頃、そんな疑問が浮かんできた
とても信じられる事じゃなかった
さくらの笑顔が脳裏をよぎる
あのさくらがネトアを?
しかも、よりによって裸のネトアなんて…
でも僕の疑念はすぐに晴れたんだ
1度呼吸を落ち着けてから、メニューのプロフィールをクリックする
ネトアのホームページなら、このプロフィールは必須だ
クリックした先には、彼女の誕生日やら星座やら血液型などの基本的な項目がずらりと並べられていた
それは僕でも知っているもので、特に目新しい内容じゃない
興味をひかれたのは、名前だ
ーー『桜井さくら』
本名だった
これを見た時、僕はこのホームページがさくら本人が作ったものではない事を知ったんだ
基本的にネトアは本名を明かさない
特にヌード写真を掲載しているならなおさらだ
『桜井さくら』が紛れもなく本名である事も僕は知っている
ならば、このホームページを作ったのは別人である
簡単な三段論法だ
じゃあ、一体誰がこのホームページを作った?
誰がこんな嫌がらせを?
その疑問もほどなくして解決される事になる
僕はトップページに戻り、今度はメニューにあるアルバムを選択してみた
そこのページにあったのは、いくつかのファイルだった
画像と映像
つまりは写真と動画のファイルだ
それを1つずつクリックしていく
写真は普段着のさくらや下着姿のものだけだった
ほっとしながら動画のファイルを開け、再生するーー
それを見た瞬間、僕の思考は停止した
何も考えられなかった
ばかな、何故こんなものが…?
たった15秒のムービー映像
主演はもちろんさくら
僕は絶句したままマウスから手を離し、天井を見上げた
他にもファイルはあったけど、そんなものは見るまでもなかったし、見る気にもなれなかった
おそらくはどれも同じような内容だろう
映されていたのは、
『桜井さくら』のセックスシーン
そこに収められていたものは、それがすべてだった
なんて事だ…
一体誰がこれを撮った?
そんな事は決まっている
さくらでなければ、もう1人しかいない
セックスの相手だ
つまり、さくらが付き合っていた彼氏ーー
タチバナけいご!
この時僕は知ったんだ
このホームページを作ったのがタチバナであった事を
そして、さくらが自殺を選ばなければならなかった理由を
おそらく、さくらは僕と同じように偶然このホームページを見つけてしまったんだろう
そして、タチバナの裏切りを知ってしまった…
さくら、君が受けた衝撃は一体どれほどのものだっただろうか
きっと君は、1人でずっと悩んでいたんだろうね
誰にも相談できず、彼氏の裏切りに絶望しながらも、僕たちにはいつもの笑顔を見せてくれていたさくらーー
僕は目を閉じた
瞼の裏側に、さくらの肢体が、笑顔がちらつく
耳の奥では、ムービーの中でリフレインしていた彼女の歓喜の声
怒りと悲しみと、どうしようもないくらいの絶望の波が唐突に胸に押し寄せ、
この夜、
僕は1人で泣いたんだーー
† † †
さくら
ねえ、さくら
君は偶然あのホームページを見つけた時、僕と同じような気持ちを抱いたんだろうか
タチバナを許せなくなっていたんだろうか
公園の桜を見上げながら、僕はさくらの事を、あのあとに起きた事件を思い返していた
携帯電話を開き、時間を確認する
待ち合わせの時間まではまだだいぶあるようだ
待ち人はーー彼女はまだ来ない
僕は目を閉じて再び夢想する
もう2度と会うことの叶わぬ君の事を
さくら
ねえ、さくら
君はあの時、予想していたんだろうか
タチバナけいごを、その手で殺めてしまう事をーー
ねえ、さくら?
† † †
そのタイトルは、
『桜色』ーー
何故そんなタイトルがつけられたのか、僕はすぐにそれを悟った
このホームページの主役が、さくらなのだ
インターネットの世界には、通称ネトアと呼ばれる、主にネットの中で活躍するアイドルたちが無数に存在している
そのネトアにも様々なタイプがあり、テレビを賑わすアイドルたちを目標にする者、あくまでもネットの中での活躍に主眼をおく者、自己満足のためにやっている者、そして見られる事に意義を見いだす者など、実に多彩なタイプのネトアが存在していて、中には自分の裸体を披露する者さえいるのが実情だ
そして、この『桜色』の中で主役を担うネトアこそ、さくら本人だったんだ
おそらくは桜をイメージしたものだろう、ホームページは薄いピンクの色調で統一され、その上部には、全裸で照れたように微笑むさくらの上半身が、大きなフレームの中に収まっていた
その一番上に、可愛らしい丸文字で『桜色』の2文字
ホームページの中段から下段にかけては、別サイトのバナーが所々に置かれ、それに挟まれるようにして、いくつかのメニューが存在した
それを見た時の僕のショックを、どう表現したら良いだろうか
この年で女性の裸を見た事がない男はまずいないだろう
ただでさえ様々なメディアーー特に今はネットの普及により、四六時中女性のヌード写真を手に入れる事が可能となっているんだから
もちろん僕だってその例には漏れない
だから正直に言って、このネットの世界で女性の裸を見たところで、特別なんの感情も抱きはしない
おそらくは神経が麻痺しているんだろう、普段なら普通の景色を見るような感じで流してしまうのが常だ
でもそれは、裸の女性が見ず知らずの相手だからであって、それが見知った女性、しかも友達であったなら話は別となる
マウスの動きが止まってしまうのは、仕方のない事だと思う
そして、今回僕が見てしまったのが、まさにそれだった
最も長い時間友達として付き合ってきた異性ーー
その女性のヌード写真が目の前にある現実
誰が見ているわけでもないのに、僕はこの時、すぐに写真から目をそらしていた
心にぽっかりと大きな穴が開いたような気分だった
見てしまった事に、何か罪悪感めいたものすら感じていた
僕は高鳴る鼓動を感じながら、再びモニタに視線を戻した
もしかしたら、さくらによく似た女性なんじゃないのか…?
しかし、やはりその女性はさくら本人に間違いはなかったんだ
さくらの身体的特徴
右目の泣きぼくろと、鎖骨の辺りにうっすらと浮かぶ蝶を思わせるあざ
見まがうはずもない
もうかれこれ10年以上の付き合いなんだから
ああ、さくら…
僕はため息をつきながら写真を眺めていた
不思議な感覚だった
さくらの写真はギリギリ腰の辺りでカットされている
その胸には豊かで形の良い乳房
ウエストのくびれは見事な曲線を描いている
ふと、病室で抱きしめたさくらの体の感触が両手に蘇り、思わず吐息が漏れた
はっと気づいて目を伏せる
やれやれ、何を考えているんだ僕は…
僕は首を振って無理やり気持ちを切り替えた
しかし、それにしても…このホームページはさくらが作ったのだろうか?
ようやく冷静になれた頃、そんな疑問が浮かんできた
とても信じられる事じゃなかった
さくらの笑顔が脳裏をよぎる
あのさくらがネトアを?
しかも、よりによって裸のネトアなんて…
でも僕の疑念はすぐに晴れたんだ
1度呼吸を落ち着けてから、メニューのプロフィールをクリックする
ネトアのホームページなら、このプロフィールは必須だ
クリックした先には、彼女の誕生日やら星座やら血液型などの基本的な項目がずらりと並べられていた
それは僕でも知っているもので、特に目新しい内容じゃない
興味をひかれたのは、名前だ
ーー『桜井さくら』
本名だった
これを見た時、僕はこのホームページがさくら本人が作ったものではない事を知ったんだ
基本的にネトアは本名を明かさない
特にヌード写真を掲載しているならなおさらだ
『桜井さくら』が紛れもなく本名である事も僕は知っている
ならば、このホームページを作ったのは別人である
簡単な三段論法だ
じゃあ、一体誰がこのホームページを作った?
誰がこんな嫌がらせを?
その疑問もほどなくして解決される事になる
僕はトップページに戻り、今度はメニューにあるアルバムを選択してみた
そこのページにあったのは、いくつかのファイルだった
画像と映像
つまりは写真と動画のファイルだ
それを1つずつクリックしていく
写真は普段着のさくらや下着姿のものだけだった
ほっとしながら動画のファイルを開け、再生するーー
それを見た瞬間、僕の思考は停止した
何も考えられなかった
ばかな、何故こんなものが…?
たった15秒のムービー映像
主演はもちろんさくら
僕は絶句したままマウスから手を離し、天井を見上げた
他にもファイルはあったけど、そんなものは見るまでもなかったし、見る気にもなれなかった
おそらくはどれも同じような内容だろう
映されていたのは、
『桜井さくら』のセックスシーン
そこに収められていたものは、それがすべてだった
なんて事だ…
一体誰がこれを撮った?
そんな事は決まっている
さくらでなければ、もう1人しかいない
セックスの相手だ
つまり、さくらが付き合っていた彼氏ーー
タチバナけいご!
この時僕は知ったんだ
このホームページを作ったのがタチバナであった事を
そして、さくらが自殺を選ばなければならなかった理由を
おそらく、さくらは僕と同じように偶然このホームページを見つけてしまったんだろう
そして、タチバナの裏切りを知ってしまった…
さくら、君が受けた衝撃は一体どれほどのものだっただろうか
きっと君は、1人でずっと悩んでいたんだろうね
誰にも相談できず、彼氏の裏切りに絶望しながらも、僕たちにはいつもの笑顔を見せてくれていたさくらーー
僕は目を閉じた
瞼の裏側に、さくらの肢体が、笑顔がちらつく
耳の奥では、ムービーの中でリフレインしていた彼女の歓喜の声
怒りと悲しみと、どうしようもないくらいの絶望の波が唐突に胸に押し寄せ、
この夜、
僕は1人で泣いたんだーー
† † †
さくら
ねえ、さくら
君は偶然あのホームページを見つけた時、僕と同じような気持ちを抱いたんだろうか
タチバナを許せなくなっていたんだろうか
公園の桜を見上げながら、僕はさくらの事を、あのあとに起きた事件を思い返していた
携帯電話を開き、時間を確認する
待ち合わせの時間まではまだだいぶあるようだ
待ち人はーー彼女はまだ来ない
僕は目を閉じて再び夢想する
もう2度と会うことの叶わぬ君の事を
さくら
ねえ、さくら
君はあの時、予想していたんだろうか
タチバナけいごを、その手で殺めてしまう事をーー
ねえ、さくら?
† † †
桜色のインタルード7
タチバナ
タチバナけんご
容姿端麗、頭脳明晰、おまけに音楽的才能にも恵まれていると言う、世の中の男たちーーとりわけ桜ヶ丘音大の男性陣からは妬まれているであろう、三拍子の揃った男
指揮科ではナンバー2と言われ、最近までさくらの彼氏だった男でもある
そいつがーー
そいつが今、僕の目の前にいる
僕とタチバナは今、大学近くにある行きつけの喫茶店でこうして向かい合っているんだ
タチバナは鬱陶しそうな顔で僕を一瞥したあと、まずそうにコーヒーをすすった
僕もタチバナを睨みつけながらコーヒーに口をつける
味なんてわかるはずもない
いつものコーヒーだから、きっとまずいんだろう
大学生にはありがたい、その安さだけが取り柄のコーヒーだ
でも今は何も感じない
感じるのはチープなコーヒーの香りではなく、例えようもない悲しみと怒り
そう、怒りだ
我慢の限界なんてものは、昨夜あのサイトを見た時にどこかに飛んでいってしまってる
炭酸の泡みたいに次々とわいてくるこの怒りは、憎しみの気体となって僕の周りを取り巻いていた
運ばれてきたコーヒーのまずさにイライラしたのか、それとも僕に話があると言われ、無理やり連れてこられたのが気に入らなかったのかーーおそらくはそのどちらもだろうけどーータチバナは面倒くさそうにそれでと言った
「話って何ですかね」
僕はつばをひとつ飲み込んでから、タチバナの目を見据えた
気がつけば、両の拳を握りしめていた
「さくらの事です。サクライさくらーーご存知でしょう、つい最近まであなたが付き合っていた女性ですよ」
「ああ…、さくらね」
タチバナは視線を斜めにし、ちょっとだけ考えるような素振りをしてから、嘲笑するように口の端を持ち上げてみせた
「あいつが何か?」
まるで最初から自分には無関係であるかのような、そんな口のきき方だった
それで僕の怒りはついに臨界点を突破してしまったんだ
年代を感じさせる木目のテーブルに、僕の両手がハンマーのごとくふりおろされる
自分でも驚くほど、重々しい音が響き渡った
数組しかいない客たちがこちらを振り向いたようだったけど、僕の顔を見た途端にすぐさま視線を外してしまった
よほど恐ろしい形相だったに違いない
でも、僕には怒りと憎しみを解き放つ理由があった
この男をーータチバナを、決して許せない理由があった
さくらの友達として
彼女の一番長い親友として
この男は絶対に許してはならないんだ!
「お、おいおい。何やってんだよあんた。ちょっとシャレになってないぜ」
タチバナがひきつった笑みを見せながら、腰を引かせる
おそらく椅子の背もたれがなかったら、そのまま床に転がっていたに違いない
それほど、タチバナは僕の豹変ぶりに意表を突かれたようだった
ええ、と僕は言う
「もちろんシャレでこんな事はしませんよ」
「しゃ、じゃあ何だって言うんだよ。俺があんたに何かしたのか?」
「何かだって? だからさっきから、さくらの話だって言ってるじゃないですか!」
荒げた声に、今度は周囲の反応はなかった
店内は静寂に包まれ、ただジャズピアノのBGMだけが控えめに流れ続けるだけだ
タチバナは落ち着こうとしたのか、煙草に火をつけ、
「さくらね…。」
と呟いた
「ちょっと待ってくれよ。そもそもあんた、さくらの何なんだ? 俺とあいつの問題にどうして他人のーーええと、ヒイラギさんだっけか、あんたが介入してくるわけ」
「他人じゃない。友達です」
「はっ。何言ってるんだあんた。友達なら他人じゃないか。いっとくが、あいつから別れようって言ってきたんだぜ? しかも、その数日後には自殺未遂ときた。…ちょっと待てよ、あんた、それが俺のせいだなんて言わないだろうな」
「まさか身に覚えがないなんて事は言わないでしょうね」
「知らないね。さくらは勝手に俺から離れてーー」
おそらくは「いったんだ」と言おうとしたのだろうけど、それは僕が言わさなかった
僕がテーブル越しにタチバナの胸ぐらを掴んで、無理やり立ち上がらせたからだ
「なっ、あんた何するんだ! 手を離せって!」
タチバナを掴んだまま、僕はやつの顔めがけ無言で右拳を放った
鈍い音と拳にかかる重い衝撃
次の瞬間には、タチバナはテーブルの横に倒れていた
やつは何が起きたのか分からない様子で僕を見上げる
「勝手に離れていっただって!? ふざけるなよ、それならどうして、さくらはあんなに泣いていたんだ!」
そうだ、僕はさくらの涙を2度も見ているんだ
そして今、僕はその涙の理由を知っている
すべてはこの男のーーこんなやつの為に!
さくらは…!
「タチバナさん、僕は昨日あなたが作ったサイトを見た」
その言葉で、タチバナの表情が凍り付いた
そう、昨夜僕が訪れたサイトの中で見たものーー
それこそがさくらの自殺未遂と、これから起こる事件の引き金となった事は疑いようがない
「僕の言っている意味、分かりますよね。あれのせいで、あなたが作ったあんなもののせいで、さくらは自殺なんてバカな真似をしたんですよ!」
努めて冷静に言ったつもりだった
でも本当の怒りをこらえるなんてのは到底できないって事を、僕は身を持って知ったんだ
体が勝手に動いているような感覚のまま、僕はタチバナを立ち上がらせると、再び拳をふるった
2度3度、いやそれ以上に僕は何度も殴りつけただろう
タチバナの鼻からは血が流れ、僕自身の手も血に染まった
タチバナはすでに意識が朦朧としているようで、まるで風に舞う紙切れのように、くるくると僕の眼前でダンスを踊っていた
僕は乱れた呼吸を整え、そして再び、拳をふりあげるーー
しかし、その拳が放たれる事はなかった
誰かに腕を掴まれたからだ
振り返ると、顎髭を生やした喫茶店のマスタが立っていた
彼は優しく微笑みながら首をふる
「ヒイラギ君。普段から温厚な君が怒るくらいだから、何かしら事情はあるんだろうけど、やめておきなさい」
僕よりもひとまわり年上の人生の先輩
その言葉で諭されたのか、はたまた水を差された事で温度が下げられたのか、それでも納得などいくはずもなかったけど、僕は頷いて握りしめた拳を下ろした
この時止められていなかったら、僕はタチバナを殺していたかもしれない
いや、きっとそうしていただろう
もしそうなっていたとしたら、さくらは悲しんだだろうか?
「さあヒイラギ君、この男の事はわたしに任せて、今日のところは帰りなさい」
この男を殴ってもなんの解決にもならない
そんな事はわかっていた
でも、それではあまりにも不公平じゃないか
あまりにも可哀想じゃないか
死を選ぼうとするほど、あんなにも心を傷つけられてしまったさくらが
せめて、その痛みの100分の1でも、タチバナに味あわせてやりたかったんだ
でも、僕の心に澱のように残されたのは、虚しさとどうにもやりきれない思いだけだった
ダメなんだ、こんな事じゃさくらを救えるはずもない
じゃあ一体どうしたらいい?
僕は何をすればいい?
愛する者に裏切られた彼女を救うにはーー
僕はマスタに頭を下げ、呆然と立ち尽くすタチバナを残したまま、喫茶店を後にした
ーー僕が昨夜モニタの中に見たもの
それは、さくらの裸体だった
タチバナけんご
容姿端麗、頭脳明晰、おまけに音楽的才能にも恵まれていると言う、世の中の男たちーーとりわけ桜ヶ丘音大の男性陣からは妬まれているであろう、三拍子の揃った男
指揮科ではナンバー2と言われ、最近までさくらの彼氏だった男でもある
そいつがーー
そいつが今、僕の目の前にいる
僕とタチバナは今、大学近くにある行きつけの喫茶店でこうして向かい合っているんだ
タチバナは鬱陶しそうな顔で僕を一瞥したあと、まずそうにコーヒーをすすった
僕もタチバナを睨みつけながらコーヒーに口をつける
味なんてわかるはずもない
いつものコーヒーだから、きっとまずいんだろう
大学生にはありがたい、その安さだけが取り柄のコーヒーだ
でも今は何も感じない
感じるのはチープなコーヒーの香りではなく、例えようもない悲しみと怒り
そう、怒りだ
我慢の限界なんてものは、昨夜あのサイトを見た時にどこかに飛んでいってしまってる
炭酸の泡みたいに次々とわいてくるこの怒りは、憎しみの気体となって僕の周りを取り巻いていた
運ばれてきたコーヒーのまずさにイライラしたのか、それとも僕に話があると言われ、無理やり連れてこられたのが気に入らなかったのかーーおそらくはそのどちらもだろうけどーータチバナは面倒くさそうにそれでと言った
「話って何ですかね」
僕はつばをひとつ飲み込んでから、タチバナの目を見据えた
気がつけば、両の拳を握りしめていた
「さくらの事です。サクライさくらーーご存知でしょう、つい最近まであなたが付き合っていた女性ですよ」
「ああ…、さくらね」
タチバナは視線を斜めにし、ちょっとだけ考えるような素振りをしてから、嘲笑するように口の端を持ち上げてみせた
「あいつが何か?」
まるで最初から自分には無関係であるかのような、そんな口のきき方だった
それで僕の怒りはついに臨界点を突破してしまったんだ
年代を感じさせる木目のテーブルに、僕の両手がハンマーのごとくふりおろされる
自分でも驚くほど、重々しい音が響き渡った
数組しかいない客たちがこちらを振り向いたようだったけど、僕の顔を見た途端にすぐさま視線を外してしまった
よほど恐ろしい形相だったに違いない
でも、僕には怒りと憎しみを解き放つ理由があった
この男をーータチバナを、決して許せない理由があった
さくらの友達として
彼女の一番長い親友として
この男は絶対に許してはならないんだ!
「お、おいおい。何やってんだよあんた。ちょっとシャレになってないぜ」
タチバナがひきつった笑みを見せながら、腰を引かせる
おそらく椅子の背もたれがなかったら、そのまま床に転がっていたに違いない
それほど、タチバナは僕の豹変ぶりに意表を突かれたようだった
ええ、と僕は言う
「もちろんシャレでこんな事はしませんよ」
「しゃ、じゃあ何だって言うんだよ。俺があんたに何かしたのか?」
「何かだって? だからさっきから、さくらの話だって言ってるじゃないですか!」
荒げた声に、今度は周囲の反応はなかった
店内は静寂に包まれ、ただジャズピアノのBGMだけが控えめに流れ続けるだけだ
タチバナは落ち着こうとしたのか、煙草に火をつけ、
「さくらね…。」
と呟いた
「ちょっと待ってくれよ。そもそもあんた、さくらの何なんだ? 俺とあいつの問題にどうして他人のーーええと、ヒイラギさんだっけか、あんたが介入してくるわけ」
「他人じゃない。友達です」
「はっ。何言ってるんだあんた。友達なら他人じゃないか。いっとくが、あいつから別れようって言ってきたんだぜ? しかも、その数日後には自殺未遂ときた。…ちょっと待てよ、あんた、それが俺のせいだなんて言わないだろうな」
「まさか身に覚えがないなんて事は言わないでしょうね」
「知らないね。さくらは勝手に俺から離れてーー」
おそらくは「いったんだ」と言おうとしたのだろうけど、それは僕が言わさなかった
僕がテーブル越しにタチバナの胸ぐらを掴んで、無理やり立ち上がらせたからだ
「なっ、あんた何するんだ! 手を離せって!」
タチバナを掴んだまま、僕はやつの顔めがけ無言で右拳を放った
鈍い音と拳にかかる重い衝撃
次の瞬間には、タチバナはテーブルの横に倒れていた
やつは何が起きたのか分からない様子で僕を見上げる
「勝手に離れていっただって!? ふざけるなよ、それならどうして、さくらはあんなに泣いていたんだ!」
そうだ、僕はさくらの涙を2度も見ているんだ
そして今、僕はその涙の理由を知っている
すべてはこの男のーーこんなやつの為に!
さくらは…!
「タチバナさん、僕は昨日あなたが作ったサイトを見た」
その言葉で、タチバナの表情が凍り付いた
そう、昨夜僕が訪れたサイトの中で見たものーー
それこそがさくらの自殺未遂と、これから起こる事件の引き金となった事は疑いようがない
「僕の言っている意味、分かりますよね。あれのせいで、あなたが作ったあんなもののせいで、さくらは自殺なんてバカな真似をしたんですよ!」
努めて冷静に言ったつもりだった
でも本当の怒りをこらえるなんてのは到底できないって事を、僕は身を持って知ったんだ
体が勝手に動いているような感覚のまま、僕はタチバナを立ち上がらせると、再び拳をふるった
2度3度、いやそれ以上に僕は何度も殴りつけただろう
タチバナの鼻からは血が流れ、僕自身の手も血に染まった
タチバナはすでに意識が朦朧としているようで、まるで風に舞う紙切れのように、くるくると僕の眼前でダンスを踊っていた
僕は乱れた呼吸を整え、そして再び、拳をふりあげるーー
しかし、その拳が放たれる事はなかった
誰かに腕を掴まれたからだ
振り返ると、顎髭を生やした喫茶店のマスタが立っていた
彼は優しく微笑みながら首をふる
「ヒイラギ君。普段から温厚な君が怒るくらいだから、何かしら事情はあるんだろうけど、やめておきなさい」
僕よりもひとまわり年上の人生の先輩
その言葉で諭されたのか、はたまた水を差された事で温度が下げられたのか、それでも納得などいくはずもなかったけど、僕は頷いて握りしめた拳を下ろした
この時止められていなかったら、僕はタチバナを殺していたかもしれない
いや、きっとそうしていただろう
もしそうなっていたとしたら、さくらは悲しんだだろうか?
「さあヒイラギ君、この男の事はわたしに任せて、今日のところは帰りなさい」
この男を殴ってもなんの解決にもならない
そんな事はわかっていた
でも、それではあまりにも不公平じゃないか
あまりにも可哀想じゃないか
死を選ぼうとするほど、あんなにも心を傷つけられてしまったさくらが
せめて、その痛みの100分の1でも、タチバナに味あわせてやりたかったんだ
でも、僕の心に澱のように残されたのは、虚しさとどうにもやりきれない思いだけだった
ダメなんだ、こんな事じゃさくらを救えるはずもない
じゃあ一体どうしたらいい?
僕は何をすればいい?
愛する者に裏切られた彼女を救うにはーー
僕はマスタに頭を下げ、呆然と立ち尽くすタチバナを残したまま、喫茶店を後にした
ーー僕が昨夜モニタの中に見たもの
それは、さくらの裸体だった


