・やりすぎた柔軟で足指を痛める。痛みでかえって自分自身に集中することになる。

・思い 観念 思い込み 信じてることを書き出すことで、目視でき、客観視できる。

 自分の中を見れば見るほど、細切れの縦に細い信条で構成されているだけだとわかり、一本一本の立て板の細い信条がなんの関係もなくただ縦にそろって起立してるだけだと感じ始める。

 一本一本の起立柱同志に なんの関連性もないと ばれ始める。

 ばれたところで 一体化が とれる。

 

なくなった観念は 書いて残しておくべきなのだろうか?書き出して不要になって、深刻さのない信念を書きだした紙は 捨ててもいいのか? 捨てよう。大事に残しておいて、後で眺めても意味がない。次々出てくる信念 信条を 書いて出して はがして捨てて、身軽になったらいい。

 昨日すててすっきりしたのが、「このまま弱いまま やられていこう」という なんとも いやらしく自己憐憫の強い自我か意識体。

 あったということを自覚すると、10代の中頃から大事に大事にこの思いを抱えて一体化してきていて、それを対外的に目視できる存在を親や学校 集団組織に映し出して、弱い自分 庇護されるべき自分を演じてきたのが見える。ああああ。もう これの役目は 終わったと思った。大事に抱えることで なにか自分の満たされなさとかやるせなさ、悲しかった思い出を大切にしてきたのだとまでは見えた。もういいです。

 弱さ 小ささ 健気さ を美徳として抱えること。それが大事と思い続けること。書いて出すと、なぜそうなのかがゆれてゆさぶられ、剥がれ落ちていく。 だから 書いて 出して 目で見て わかるようにしたらいいのだな。

 

 「弱いまま」「被害者のまま」「やられるまま」現状のまま 落ちていこう・・・・なんて。

なんて 暗くてかわいそうで(?) 自分勝手な思い込みなんだと 書いた字をみると思えるが、一体化してると 全く気付かない。データ プログラムが 自分の性格に一体化してこびりついていて、「先祖の性格が孝さんの性格にはいりこんでいますよ」と 以前ゆにこさんに いわれて 瞬間 むかついたのを 思い出したが、いわれても仕方がなかった。

 弱い ちいさい 覇気のない エネルギーが 自分本来の モノであるはずがない。

 

 なんか しらんまに 歌をうたったり 相撲したり へんな踊り始めたり ぬいぐるみの可愛さに かわいい~~!っていったりする息子の姿が 自分なのだろう。

 

 まずは 自分自身を解体していって そのさきに 自由があるのだ。出てくるデータとプログラムは 解体されるべく 灰汁のように あぶりだされてきただけで、さらっと掬って救って解放しつづけよう。

 

 とりあえず、このまま・・・・という プログラムが判明して見つかって とれてよかった。

 もう二度と、自己憐憫 己かわいそう意識は 抱えないでいよう。出てきたら解放しよう。どうしていきたいか。どうなっていくと 明るくて元気で楽しいかでいよう。