九州の地震があって、そいういうのいってられないとしたらどうだと 意識のレベルだけだけど ぐっと追い込まれたとき、もう自分自身の念や情、変化したくない思いにしがみつくものがすこしはがれた。

 

◎だれかに言いつけて なんとかしてもらいたいというモノ

◎自分は隠れて人になんとかしてもらいたいもの

◎自分の手は動かさず 権力者やいきおいのある人になんとかしてほしいもの 

があるのを 認めた。

 

もういいや。自分主体で、自分で決めて 動こう。

動いて決めて なったこと 起ったことは そういうものだと 捉えていこう。

これを自己犠牲とか事故憐憫と 安易にくっつけて悲しさ淋しさと同じものに貶めていくのもプログラム。

 

自分の意で 現状を変化できるのに、それができないと信じ切ってるのも エネルギープログラムだ。

でたプログラムは どんどん出てくるし 霧がないけど、一個一個やっていったら、なんとか少しずつ 軽くなってる。

 

動けないとか なんともならないとかいうのは、こわがって自分のせきにんで動くことをしないでいるだけなんだな。

高圧的威圧的声がでかいポーズは ビクビクしてることの反転。

「もう! いらん」「もう あつい」「もう! 帰る!」「もう歩かれへん」「だっこ!」って、うちの子が 文句言う姿と

散歩を拒否して抱っこされてる柴犬(拒否しば)の 甘えた姿が、一緒に見えてかわいい。

 

助けて!なんとかして!っていうエネルギープログラムは 駄々こねて甘えてる様子と似てるから、

あやして理解して そうかそうかと声かけて、気をそらして機嫌をとって、大好きだよ~かわいいよ~って思いをもって接していくのと似てる。(と感じる)

そやから、そういうのに対して、怒ったり責めたり脅したり 殴ったり 泣かしたりしたら あかんのや。

やっとわかった。今さらか。ホンマに人間理解ができてなかったな。


都合のいいように、自分にとっていいように、現状がそのまま問題なく ごまかされながら その場がなんとなく進むことを願う思いにあるものは、 自分が責められないようにとか イライラしないでいられるようにとか、勝手ない悲壮感悲しさ苦しさだった。


まわりにだれもいないんですよ

周りはデータだけ

っていう ゆにこさんの 話が よくわからん!って思っていたが、

ただ わかりたくない 理解したくないという抵抗で、あったようだ。

それが データとか 思いこみとかプログラムであって、 解放 開放が大事なのだな。

 

解放 開放のイメージが かわった。

床や机のふき掃除がおわったあとの、汚れを吸い取った雑巾 布巾を きれいに洗ってぎゅっとしぼって、清潔にしていくこと。

これは やらんと あかんわな。ふいて汚れたら洗ってしぼっって干して感想させて って 大事やな。

 

と、重い話は これまでで、

 

とりあえず明日は また子供とプール。

帰り路、また疲れ切って ぐっすり車内でねるんやろな。
一瞬一瞬の表情の変化が とても愛おしいし、それに 右往左往され 振り回されながら愛全力で対峙する妻も愛おしい。これが平和でなくてなんなんだ。これでもうお腹いっぱいだ。

 

愛おしいという思いって、表面上 思う通りにならないことへのイライラが附属してついてくるから 単純にこのイライラをプログラムとして解放しようとしてしまうけど、本来このイライラって愛情なのですね。

書いてやっと 今、知れた。 なにもかも愛って 書いてて自分で ホンマに 恥ずかしいけど、まあええや。

 

この間 出会った解放ソング

 

 

 

  ちゃんと 愛で 生きてる。