どうしようもない。
どうすることもできない。
投げやりになる。
でも 自暴自棄にはなり切れない。
一点で とどまっている。
そんな気分を 表してくれた本がこれ
思いがけず利他
多分 なんども読み返す。
そんなつもりはなかったのに そうしてしまった。
だからこういう目になった。
と 業があることをうけいれて
それでも小さな善行をしていこうとしてしまう。
そういうものなのだということを受け入れて、
できるところで 親切に する。
~された 攻撃された 悪口言われた ズルい事された
と おもってしまうのも そういうものだから そうなのだ。
逆に 人を攻撃して 悪口いって 批判して 文句いっても いるのが自分。
善も悪も 両方存在するのが自分だから、そこから始めて動き出す。
そんな人が行う 本当に小さな親切 善行が 身に染みる。
本屋で目が合って買ったこれ
内田先生も、 物事に結論づけることをせず、
こうかもしれない、そうじゃないかもしれない、
こんな可能性がある と 違った視点をいつも見せてくださる。
藤井先生に勧められて買った本
数年前から知っていたがなかなか買おうとしなかったのに、なぜか気になって買った本
同時に3冊 乱読中の中、
仕事で 3800円損をした。
それをいつまでも ひきずって
くそ~
なんでやねん、
と思っている私。
支払できない客に対し、「もういいです!」と 料金をもらわずに すませた小さい自分。
無理くり 善行をしたのだ。業を払ったのだ。と思いこもうとするから、上記のような「思いがけず利他」「だからあれほどいったのに」という本のなかの言葉にであってしまう。
結論づけて なっとくして
思考を止めてしまってはいかん!
らしい。
これに意味をつけてもよし。意味をつけなくてもよし。
想いにとらわれて苦しんでいるのは自分だけ。
と書くと、なんて小さな想いなのだと 思えてしまう。
なんども反芻して苦しむのを休め、一度書いて文にして眺めて読み返すことで はがれはなれ 愛おしくなる。
そういうこともあるよね。
そんなこともあるよなあ。
親鸞の悪人正気というものも「思いがけず利他」で教わった。
自分もそうだけど、医療界も政界も実業界もどこもかも
どうしようもない中で のたうち回りながら
ええカッコしたくて バレバレのずることをして、
同時に 小さな かわいらしい親切と善行を行っている。
と見えてくると、誰か 何かの責任を糾弾して責めてる時間がもったいないのだと思えてくる。
みんないろいろな持ち場で 最大限努力している。
お疲れさまです。
明日健康診断の再審査。
それもあって すこし ネガティブなのだろう。