起っていることに対する意見を聞いていると、
自分の考えと全く違っていることはおおい。
同じように考えてる人とだけ話してると安心かもしれんけど、アマノジャクの私としては、あきてくるし おもしろくない。
そういう意見はあなた由来のものではないでしょ。
オリジナルではないでしょ。 というマインドがわく。
かと言って、まったく私の興味関心のない出来事を 楽しそうに ワイワイ話しされる場も 引いてしまう。ただ興味がないだけなので、どうでもいいんだけど、競馬とか レースとか 渋滞してたとか。タバコ 酒の話とか。 興味がないから すっとその場から いなくなるか 立ち去る。
オリジナルの意見とはなんだろう?
体を感じて 思い出して状況をみて さぐりさぐり話すときは、ゆっくりになる。
とここまで、書いてみると、思い 意見 考えは ただ それであって、それらに対する 反応である意見と考えが 合致してるか 反してるかだけで、精神 心が 振り回されてるのだな。と 思えた。
思う。感じる。意見がでる。
誰が思って感じて意見をしてるんだろう?
ある誰かさんの意見や思いだけ大事だと決めてしまって、
ある誰かさんの意見や想いは 反論して間違ってると決めつけてしまう。
基準は なんだろう。
単純ではないだろうけど、この基準は・・・・と思った時点でまた思考が出てきて、さらにこうした基準に対する言葉での定義つけすら、誰がしてるのかというと、己自身である。
「こういうことに(今のところ)しておけば
今は安定するから こういうことにしておく」理論が出た。
おもろい。
こういうことにしておくけど、
またいつか変わってしまうかもしれん。
だけど、その反論が見つからんから それでいい。という理論。
「世界は仮説で出来ている」という本のタイトルで何かあった気がする。
何をしてても 面白いところはあるし、オモシロい人はいてるし、変だ!とか間違ってる!とかいうのも オモシロいの分類には入ってるのだ。
自分ではないものに出会うことがおもろい。
うちの おしり聖人
