本物か 本当か
わからないけど決めていくしかないときがある。
いや わからんまま 決めてることしかない。
決めた後、~だからと理屈をつけて自分で納得してるだけ。
どうしたら正解か
どうしたら間違いないか
どうしたら賞賛されるか
何百も何千もアドバイスや情報を聞く。
が、実行するのは自分。
今日読んだ本
茂木先生の話はとても面白い。
対談本って情報が多すぎて整理ができなくて苦手と思ってたけど、今回は素直にすっきり入った。
数年前からいつか整理したかったユダヤ人の歴史、日本の蘇我氏、物部氏、古墳と埴輪 について いろいろ知れた。
合ってるか、正しいか、本当か、誰が言った、どこに証拠がという言語で縛り付けた思考から、感覚的にあれとこれとあんなのが似てるからもしかしたらつながりが・・・と飛んでいくような学問の仕方があるらしいというのもこの本から知った。
世界史を知れば知るほど、殺戮 搾取 羨望 怒り 虐殺と被害 呪い怒りで いっぱいなのだとわかるから、ロシア人とユダヤ人、○○人 ○○族 の恨みの深さが見えてくる。
が、同時にまったくそんなの一切関係なしにいることもできると感じる。
先祖がどうだからとか150年前に何々されたからこうしてやるとか、
冷静に思い返せば、そうかもしれんけど、150年まえのことを今 150年たって恨みをはらそうとするなんて思いを持ち続けることの方が大変だ。
昨日 コンビニで買い食いしたものでさえ覚えてないのに。
思いを継続し続ける。恨みを持ち続ける。己こそが正義だとしか見なくなってしまう。
そんな過去のあったかどうかわからんことを引き合いに出して自分ごとのように自己犠牲として感じてしまうのは、
自分もやってしまう。
集団が集団として過去~だったからを基準に動くとどえらいことが起こる。
そんなとき個人として「ちょっとちょっと ホンマでっか?」と発言してぼこぼこにされるくらいなら流されてしまえ!と安易に従ってきたのが人類の歴史なのだと思う。
経済的に縛られてるとか 家族について脅されてるとか、そんな大げさなことはほぼ起こらないのに、そうだと確信を勝手にしてしまって動いたり動かなかったり流されたり人を操作しようとしたりする。
そうなってしまう感情はわかる。自分がそうなったら逆らえるかと言ったら、自信をもって無理!ごめん!と思う。
だからこそ、いろいろ知って話して聞いてアウトプットして、
できそうなところから 個人の心情 精神力を鍛えていかんとあかんのやと思う。
胆力っていうらしい。
曖昧さ。白黒つけない態度。一つの視点から物事をみるんじゃなくて 違う視点から考えてみるにはやはり本を読むなり人と話すなりして、瞬間瞬間湧いてくる心の中の違和感 ざわつき 不明点に 事細かに慎重になって 丁寧に まずは自分自身と話し会って
「どうおもう?」
「どう感じる?」
「なんでそうなん?」
としていく時間が 大切だ。