以前のエントリーに引き続き、日本サッカー協会元会長・長沼健さんについて再度記して参ります。長沼さんを巡っては今回が2回目のエントリーになります。





















【スポンサーの招聘、長沼さんの業績で特筆すべきはその商才である】












ハリル更迭騒動が冷めやらぬ2018年5月、日本サッカー協会は来たるW杯ロシア大会の🇷🇺メンバーを発表した。その際目を引いたのは、会見に臨んだ田嶋幸三・同協会会長が開口一番、サッカー日本代表を後援してきたスポンサーに対する謝意を開口一番読み上げたことだ。記者団の前で、出場メンバーよりも先にスポンサーに言及する様はいささか奇異に映る光景だ。田嶋氏が冒頭で口にした発言は次のようなものだ、







「サッカーがマイナーだった時代から、長きにわたり支えてくださったOfficial partnerのキリングループをはじめ、Official supplierのadidas・Japan、supporting companyの各社の皆様。そして全国のサッカー・ファミリーの皆さん、国内外のファン・サポーターの皆さん、そして、選手をこれまで育てて下さった少年団から中学、高校、クラブ、Jリーグ、大学といった指導者の方々。ここにおられる、報道に関わるメディアの皆様方。本当に多くの方々のサポートがあって日本サッカーはここまで来ることが出来たと思っています。この場をお借りして皆様に御礼申し上げます。」









とりわけ田嶋氏が力を込め謝意を表明したのがキリングループに対する言及であろう。協会側がキリングループに配慮を滲ませるのは資金面における依存、これが群を抜いている事実だ。平成26年(2014年)に日本サッカー協会とキリングループは、本年12月末日まで8年間で200億円のパートナー契約で合意している。200億という契約金がとてつもない金額であることは触りだけでも実感できると思うが、

確かに、キリングループの後援が別格であることは触りだけでもわかる。選手一同が招集後着用しているジャージにはキリンのロゴが当然のように認められている他、平成27年以降は一スポンサーという枠を超えオフィシャル・サポーターという位置付けになる。事実、キリン自身も自身の立ち位置について「協賛」「支援」という言葉は使わず「応援」という言葉を用いる。

それでは何故、キリングループ🦒が特別な存在なのか?! その理由は昭和53年に遡る。当時の日本はメキシコ五輪🇲🇽の3位入賞を最後に低迷が続き、悲願であるW杯出場にも手が届かない状況が続いていた。今では信じられないだろうが中学、高校でサッカー部が存在しないことなど珍しいことではなかった。自国のサッカーが勝てないことに伴う理解の不足、そうした状況に重くのしかかるのが資金面での苦しさになる。スポーツの世界がスポンサーとは無縁ではない一例として、以前のエントリーでF1🏁のマルドナード師匠とヴェネズエラの石油企業PDVSAの関係をご紹介したことがあるが、日本サッカーにおける窮状を救ったのが長沼さんその人なのである。


と言うのは日本サッカー協会の本部は現在では本郷、一方のキリンビールは中野にありますが、昭和53年当時はサッカー協会は神南(有名どころとしてはNHKの総局やライヴハウスのeggmanなどがあります)にあったことと、山手線を挟んだ真向かいにキリンビールの旧本社ビルがあったことにあります。こうした些細な縁がサッカー協会とキリングループのタッグにつながる。

長沼さんを巡り、この方が善悪では推し量れないと思うのは、スポーツの世界にスポンサーを持ち込んだことだと考えます。ケンカは資金面での裏付けがなければ戦えない。サッカー協会は上場企業ではなくあくまで公益財団法人という位置付け。以前は旧文部省、文科省の所管(前川がここでも貧困調査をやっていたかは知らん(笑))、旧文部省の所管故に川淵氏と森元総理には知己ができる。長沼さんのスケールの大きさは、旧文部省の所管故に政治との距離の取り方が上手かったことに加え(事実、川淵氏との権力闘争にも勝ち抜いている)、何より抜きん出ていたのが商才と言えるのである。事実、昭和53年を境にサッカー協会は一貫して黒字です。

そのサッカー協会は今日では200億円の利益を計上するある意味での「優良企業」その優良企業をここまで大きくしたのが長沼さんであることは否定し難い功績だと思います。




長沼さんについて取り上げるのは今エントリーが2度目になりますが、最初のエントリーで申し上げたのは、長沼さんという方は、日本サッカーの近代化を妨げる抵抗勢力どころか、反対に道を切り拓いた方だと言うことです。長沼さんの足跡が時にダーティーに映るのは、この方の生き様が政治家以上に政治家的であることであろう。長沼さんが“広義の意味での政治家”だとすると、その判断が真に評価される瞬間は公職を退き歴史の1ページとして業績を振り返った時になる。その歴史の審判の基準は単純明快、その業績が7:3で利益に沿っていたか、それとも3:7で不利益に繋がったか、その何れかしかない。私の答えは当然前者です。











キリンビールとの提携により、同年から設けられることになったのが「キリンカップ」になる。発足当初はジャパン・カップ、これが昭和60年には名称がキリンカップと改められ、平成4年からは日本以外に各国の代表チームが2つ加わる3ヶ国による対抗の枠組みが固まる。キリンカップで個人的な話をすると、平成6年の大会には父と観戦に行くことが9割型決まっていたんです。だが、マラドーナの薬物問題でアルゼンチン🇦🇷の不参加が決まった為、土壇場で取りやめたことがあります。友人の中には代替の豪州戦を見に行った者が何人かおります。

平成後期になるとキリンカップと言う枠組みが姿を消し、キリン・チャレンジカップに舞台を移していくことになるが、それでもキリンカップは日本サッカーを語る上で切っても切り離せない。当時の日本サッカーの1番の課題は、世界のサッカーに接する場が不在であったこと。そもそも平成の頭ですら、世界のサッカーにファンが接する機会はWOWOWのスーパーサッカーか、テレ東のダイナミック・サッカーぐらいしかなかった程、昭和50年代頭のサッカー文化など、推して知るべしである。当たり前ではなかったことが次第に日常の一部になる。それが長沼さんの功績なんです。繰り返しになりますが。












【長く冬の時代が続いた日本サッカー 転機を迎えたのは平成4年である】





昭和53年当時、長沼さんは日本サッカー協会⚽️の専務理事。政治家で言えば官房長官の立場と言えるが、実際の協会トップが長沼さんだったことは関係者の間では周知の事実。というのはその2年前の協会人事で、長沼さんは全権を掌握。事実上のクーデターと言えたが、関係者、報道関係者の評価は概ね上々だった(これについては後述します)。その意味では、キリンビールとの提携こそ、長沼さんが最初にやってのけた大仕事なのです。

何より、当時の日本サッカーを取り巻く状況に目を転じると、概ね、次の4点に集約されるのではないかと思う、






①「慢性的な資金難」




②「釜本、杉山以降の世代交代の失敗」




③「代表チームの強化を巡り、国際試合の場が不足している」





④「スポーツ文化としてサッカーへの理解が不足している」





何より長沼さんが大仕事をされたことで、↑上記の項目①と項目③は課題として解消されたように思う。個人的に上記の課題解消されたと感じるのは、やはり平成4年(1992年)であろう。この年は日本サッカーにとって、言わば「手応え」とも言うべき年。ダイナスティーカップ、アジアカップ優勝を果たしアジアの頂点に立った他、特筆すべきはあのユヴェントスと2戦連続引き分けに持ち込む離れ業を演じたことだ。









個人的な見解だが、日本代表の歴代最高の試合は何かと問われたら、私などは文句なく同年のユーヴェ戦2戦を真っ先に挙げたい。国際Aマッチには数えられない同試合だが、第1戦のカズの得点に至っては、あのジュリオ・セザール(ジュリアス・シーザーのポルトガル🇵🇹読み)を振り切ってのものだ。日本のサッカーは平成の頭にはもう、ここまで来れていたことがわかるのと、昭和53年を起点とした時、長沼さんの14年に及ぶご努力が結実の時を迎え始めたのだ。
















私自身、この光景が日本サッカーの「原風景」であるのと、日本サッカーにとっての「中興の時期」もまた平成4、5年と位置付けられるだろう。仏大会予選のカザフ戦や4年前のハリル更迭劇等、試練にされされる場面は幾つかあったが、日本のサッカーがダメになっていく絶望感は私の中ではないんですよ。

一方で、↑件のユーヴェ戦を振り返る時。幾つかの希望と期待が浮かび上がる。まず日本の持ち味は「走れるサッカー」であること。90年代は文字通り走れるサッカー(私などはその象徴がパーヴェル・ネドヴィエドだと考える)の文化、その最盛期とも言えたが、その時代の趨勢と日本のプレースタイルが合致していたこと。特筆すべきは、第1戦は司令塔のラモス瑠偉が出場しない中引き分けに持ち込んでいること。当時ラモスは35歳、当時でさえ相当な高齢だ。当時小学生だった私の目にも、仮にラモスが退く事態になっても代表が傾くことはない、そんな希望を抱かせるに十分だった。

他方、教訓とすべきは、危険な時間帯、ロスタイム(Additional TIME)はキープだと言う文化がこの時代はまだ定着していないこと。後のドーハ、カザフ戦の伏線もこの段階で敷かれていることがわかるのと、この辺りが世界との「差」だと感じるのが、選手の視線がボールに行くか選手に行くかの違いだ。

↑第1戦のロスタイムを具に見てみればわかるが、同点弾を決めたメラーを全選手が見逃している。攻めなければならないのはユーヴェである以上、死に物狂いで攻めにくる。この時間はキープと言う文化が定着が定着していないのは、勝つことにまだ慣れていない為、そうした駆け引きができないのだ。














後、右サイドを固めた堀池さんの守備はやはりソツがない。日本の右サイドは当時決して破られることのなかった“オハニャン線”だが、それは相手がユーヴェであっても例外ではない😲❗️ 余談ですが、堀池さんのご長男の亮介さん、今フジテレビのアナなんですよね。最近ではF1🏁の実況を手がけることが多いですが、ホープからエースへの飛躍を感じさせます。20台の若さにしてあの落ち着き、嫌味のない語り口、まるで現役時代のお父さんを彷彿とさせます。一般には知られてはいませんが、間違いなく将来におけるフジテレビを背負って立つ方だと思います。この亮介さんにも是非ご注目をして頂ければと思います。









それから、一方のユーヴェで言うと注目してほしいのが、最終ラインを固めたユルゲン・コーラーですね。と言うのは、この選手に対する評価って何でこんなに低いのって言うことなんです??

コーラーは90年のイタリアW杯優勝🏅、同大会決勝ではマラドーナを完封している。それだけではない、東西ドイツ再統一後はユーロ96で優勝。翌年にはCL優勝・ビッグイヤー獲得(96-97)、セリエAではユヴェントスでスクデット獲得も果たしている(94-95)。W杯とユーロで優勝すること自体大変な偉業の筈だが、評価が一段低く見られているのはユーヴェでスクデット獲得を果たした際、バッジョと共に構想から外されていたことが大きいように思える。

と言うのは、コーラーの持ち味はマンマーク、まるでスッポンのような嫌らしいマークが持ち味で、1対1なら決して負けない。だが、これまでのマンツーマン・ディフェンスを重視していたトラパットーニ氏が94年に更迭され、マルチェッロ・リッピ氏(二谷英明さんに似た)に交代すると、守備に対する戦略が一新され次第に出番が無くなっていく… トラップ時代、バッジョとコーラーの2人はチーム内で別格だった為、彼ら2人を構想から外すことは前政権に対する意趣返しの意味もあったのだろう。





【生涯語ることがなかった被爆者としての出自と、端々に見え隠れする死の影】
















その長沼さんは昭和5年9月生まれ、出身は広島県になる。同年生まれには名優・二谷英明さん、政治評論家の三宅久之先生、竹村健一氏、ドイツの🇩🇪ヘルムート・コール元連邦宰相などがおられます。

昭和5年・広島県出身、この短い経歴だけでもおおよその察しがつくこと。そう、長沼さんは被爆者のお一人なのです。そのご生涯はつまるところ原爆の後遺症との戦いと言っても言い過ぎではなく、後遺症の痛みは想像を絶することは説明の要はないでしょう。長沼さんが早くに一線を退く決意をしたのも、この後遺症が原因です。ご自分の現役生活が決して長くはないと悟るその胸の内には、幾つもの死の影が見て取れるのです。

この事実は、それまで長沼さんを日本サッカーの近代化を阻害する抵抗勢力としか見ていなかった、自身の認識を改めるに十分だったことと、最初にその話を耳にした時、私の中でさっと血の気が引いて行ったことを思い出します🙇‍♂️ 表面的な報道だけで苦悩を察することもしなかった自身の不明を恥ずかしく思う。

何より、被爆者としての出自が一般には知られていないのは、当の長沼さんが昭和の男を絵に描いたような「黙して語らず」のご性格であったこと。その被爆者の立場であったからこそなのでしょう、長沼さんには原爆で生き残ったことに対する「高揚感」はなく、そうではなく、生かされていることの幸運、本来であれば死んでいた後ろめたさが、背中でモノを語らせるようになる。あの仁義なき戦い5部作の締めの部分で、





「そっちとは飲まん、死んだもんにすまんけぇのぉ」






と菅原さんがこのように返答する一幕がありますが、この言葉は長沼さんを含め、被爆者の人たち皆に共通する思いだったような気がします。

実際に長沼さんは、同郷である下村幸男さんや今西和男さん(元サンフレッチェ広島総監督)など一部の方にしか胸中を吐露することはなかった。今日の日本サッカーの礎を築いたもう1人の功労者である下村さん、今西さんもまた被爆者の1人だった。












【「仁義なき戦い」の続編とも言うべき昭和51年の政変】










その長沼さんが、とかく“ダークヒーロー”と見られがちなのは一にも二にも非情の手段で協会の実権を掌握した経緯に起因する。世に言う「昭和51年の政変」である。

当時の日本サッカー協会の会長は野津謙氏(明治32年生まれ)。親子2代に渡る医師であり大正から昭和にかけて日本サッカーの発展に寄与してきた功労者でもある。事実、64年、68年の五輪代表監督に長沼さんを起用したのは野津氏だった他、あのデッドマール・クラマー氏を招聘したのも野津氏である。だが、昭和40年代後半に入ると、年齢から来る衰えも加わりその力には翳りが見え始める。長沼さんにとって、野津氏は自らを引き立ててくれた恩人でもあったが、その恩人を捨て身の人間というのは勝負どころを実に心得ている。長沼さんはあっさりと野津氏を放逐すると、自らはあえて会長職にはつかず神輿を担ぎ上げる“闇将軍”として君臨する。仁義なき戦いであまりにも有名な“あの一幕”、これを現実の世界でやってのけたのが長沼さんなんです。その意味では仁義なき戦いの第6作とも言えるのですよ、長沼さんの立ち回りは…

野津氏ら旧執行部が抵抗の構えを見せなかった為、長沼さんらの決起はサッカー関係者、報道関係者からは総じて好意的に受け止められ「無血クーデター」と評価された。また、その際に神輿として担ぎ出したのが平井富三郎氏で、平井氏は当時の日本経済の象徴とも言えた新日鉄の社長。長沼さんを巡り、特筆すべきはその卓越した商才といえるが、平井氏を担ぎ出したことで財界とのパイプができたことになる。

奇しくも、長沼さんに放逐された野津氏も同じく広島県の出身。そう考えると、スポーツ界、暴力団を問わず広島のケンカと言うのは取るか取られるか、この2つしかないのであろうか?!





【故郷・広島が人の風下に立たないその理由】












原爆投下で焦土と化した故郷・広島。自らも被爆体験を持つ長沼さんが未来に希望を抱いたもの、それがサッカーである。では何故、長沼さんはサッカーに未来を見出したのか?! 一般には知られていないが、広島は日本サッカーの礎が築かれた知る人ぞ知る聖地でもあるのです。これはサンフレのホームページを一度開いて頂ければと思います。

日本にサッカーが伝えられたのは、維新成就から間もない明治6年(1873年)、そして近代的な形が整えられるのが、今から100年前の大正の御世。同協会の発足が大正7年(1918年)それを皮切りに、大正10年には現在の天皇杯の前身となる全国蹴球大会が設けられる。だが、本格的な国際大会はそれよりも2年早い大正8年(2019年)になる。その年の1月、当時の広島高等師範学校及び県師範学校が、地元・似島に収容されていたドイツ人捕虜と交流試合を行なっている。ドイツ人捕虜と交流試合と聞いて奇異に感じられる方が多いと思うが、その理由は第一次大戦で我が国は旧ドイツ帝国🇩🇪と交戦、その際投降したドイツ兵を本国で収容していた経緯があるからです。結果はドイツ人捕虜チームの圧勝、日本側の完敗に終わります。






「日露戦争は、植民地支配の もとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」






平成27年の終戦70年の節目に出された総理大臣談話(いわゆる安倍談話 Abe statement)の冒頭に次のような一文がある。では何故アジアやアフリカの人々を勇気づけたのか?! それは当時の日本が戦勝国に相応しい振る舞いを行ったこと。具体的に言えば交戦の結果、捕虜となった敵国の兵士を人道的に扱ったことです。イルグンを創設したゼエヴ・ジャボティンスキーの相棒、ヨセフ・トランペルドールもその捕虜の1人です。


























このことは日清、日露に限らず第一次大戦(日独戦争🪖)においても例外ではなかった。大正3年の11月には青島が早々と陥落、投降したドイツ人捕虜はこの年だけで4000人、大戦が終結した大正7年までには4700人を数えた。投降した捕虜の受け入れを巡り、全国各地に収容所が順次設けられることになる。収容所が設けられたのは全国16都市・20箇所、これは日露で実績のある松山に3箇所収容所が設けられていたことと、その中でも評価が高かったのが広島沖の似島と徳島の板東になる。









その内の一つ、徳島県の板東についてはご存知の方も少なくないだろう。規模的にも大きく、ここでは実に1000人もの捕虜が収容されていた。(後述する)似島との大きな違いは、板東は離島ではない為街を上げてドイツ兵捕虜を歓迎したこと。その結果普及したのが西洋音楽になります。例えば、ヴェートーヴェンの代表曲「第九」が初めて演奏されたのは板東の収容者になります。
この模様が描かれた映像作品が、松平健さんが主演を務められたバルトの楽園になる。この作品はご覧になられた方も多いかと思います。何故、バルトという名前が冠されているかと言うと旧ドイツ帝国、前身のプロイセン王国は本来バルト海沿岸の国家。東プロイセン(敗戦の代償として、波露に割譲。現在はポーランドのマズールィ州と🇵🇱、ロシアのカリーニングラード🇷🇺にそれぞれ編入)が源流になりますのでね。








もう一つの大規模な受け入れ先が広島沖の似島になる。広島沖4kmの海上に浮かぶ似島は一般には知られていない島だが、この地は日清戦争前後から陸軍の検疫場が設けられ、日露の頃になると投降した捕虜を受け入れる収容所が併設されるようになる。日露の下地があったからこそ日独戦でもその役割が引き継がれた。収容者は板東の約半数の500人規模だが、同収容所における人道的な振る舞いが日本社会に及ぼした影響は計り知れない。

ここで言う日本社会に及ぼした影響の意味は、主として食文化とサッカーのことである。その一例が、洋菓子の一大ブランドとして知られるユーハイムの創設者カール・ユーハイム氏になる。同氏は投降したドイツ兵の一人で、今日では多くの人たちに親しまれているバウムクーヘンは、同氏が似島の収容所で焼いたことが普及のきっかけになります。

そして、もう一つの重大な影響。それが先に触れたようにサッカーになります⚽️。そしてその余波はあの方にとって、世界への憧れを抱かせる一因にもなるのです。



当時、世界から賞賛された戦争捕虜に対する取り扱い。捕虜はこの頃は俘虜と呼ばれることが一般的だった。日本が捕虜を人道的に扱う優等国だった背景として、明治・大正の風土がとてもリベラルだったことがまず挙げられる。その風土を反映するように、日本はハーグ陸戦条約の当初加盟国だった。

加えて、当時の戦争の概念として総力戦と言う概念はなく、敵国の軍隊を徹底的に打ちのめすと言う考えはお互いにない。当然、モスクワやベルリンに進軍する考えなど片隅にもなかったこと、反対に露や独に東京まで進軍する考えもまたなかっただろう。そうした大らかな考えは現場の兵士たちにも反映される。

3つ目の理由として大きかったのは、明治大帝ご自身が日清、日露何れの開戦にもご慎重、いやむしろご反対だった事実だ。それは開戦の際、大帝が披露されたお歌に反映されている。





「四方の海 皆同胞と思う世に など波風の 立ち騒ぐらむ」




このお歌は後に、大東亜戦争回避の為、昭和天皇が同じように御前会議で披露されている。明治大帝ご自身、日露開戦に慎重だった伊藤博文(維新の松方弘樹兄ィ、この方も女性問題、ここだけは決定的にダメな方だった)、山本権兵衛らを信頼されており、開戦を主導した山県有朋、桂太郎らにはどちらかと言うと否定的であった。大帝が開戦を必ずしもお望みでないとすると、政治は嫌でも戦勝国に相応しい振る舞いをすることで回答を示すしかない。その成果が評価されたのか、桂は後に明治大帝から最も信頼される側近となる。桂は令和元年に更新されるまで憲政史上最長の総理在任を誇ったわけだが、その1番の理由は捕虜に対する扱いであろう。





話が少々脱線したが、その長沼さんは終戦後、地元広島の高等師範学校・中等部(現在の高等学校に相当)に進む。この高等師範学校という名前には聞き覚えがありますよね。そうです、先のchapterで申し上げた、日本で初めての国際試合を演じたあの学校になります。同校入りが長沼さんにとっても特別な意味を持つのは、終戦から2年後の昭和22年(1947年)の全国中等学校選手権(現在の高校サッカーに相当)で師範学校を優勝させてしまうことなのです。同大会における広島県の代表校としては、師範学校が2校目になる。一方、明治憲法下において中等学校選手権を席巻していたのは軒並み兵庫県の代表校。その草分け的存在が大谷四郎さんになります。この方は一般には知られていない方ですが、相棒の大谷亮介さんのお父様になります。

長沼さんが傑出していたのはそれだけではない、同師範学校は翌23年の国体でもあっさりと優勝を果たしてしまう🏅。中心にいたのは無論長沼さんです。師範学校の体制は、通常は悪手である3トップ、長沼さんのポジションその一翼であるFW。中等サッカーを席巻した長沼さんが、余勢を駆る形で大学サッカーを席巻するのは自然な流れになる。後に監督起用を巡り論争になる加茂周さんとは、前のエントリーで申し上げたように関西学院大学の先輩後輩の関係に起因する。

その長沼さんは、平成20年に肺炎により77歳のご生涯をひっそりと閉じられている。その死が大きく報じられることはなかったが、日陰に生きることを良しとされていた長沼さんにとって、その生涯には一片の悔いもなかったのではないか。当時は夢でしかなかったW杯出場は既に三度を数え、アジアカップ制覇も3度を数えている。その意味では、この方もまた人の風下には決して立つことがなかった方である。










わしらの時代は終わったんじゃ。死んだもんにすまんけぇのぉ