前回のエントリーに引き続き、2021年のイスラエル総選挙🇮🇱と今後の政局について記して参ります。今回のエントリーが2度目になります。今選挙における最大の焦点は、同国を12年に渡って統治してきたベンジャミン・ネタニヤフ首相(リクード党首、愛称はBibi.以下Bibi)の続投の是非です。だが、先のエントリーで調整は困難と申し上げたように、今月4日組閣は断念に追い込まれている。Bibiは同日の内にレウヴェン・リヴリン大統領に組閣断念の旨を申し伝え了承された。この様子だと年内にまた再選挙の運びになる…😩

これは同国の選挙制度が全国完全比例(一院制、総議席は120議席、最低得票ラインは3.25%)を採用している為、どの党も単独では過半数を獲得できないこと。氏が率いるリクード(連帯の意、獲得議席は30議席)は、政策的に近い他の政党と連立を組まなければならないが、同調した政党はシャス(Haredim政党、獲得議席は9議席)、ユダヤ教聖典連合(宗教政党、獲得議席は7議席)、宗教シオニスト党(宗教右派政党連合、右派政党-トクマを中心に再編、獲得議席は6議席)の3党のみ、総議席は52に留まった為、これでは過半数に達しない。

最大の理由は遺恨を抱えるイスラエル・ベイテイヌ(世俗右派、党首はリーベルマン元外務大臣、獲得議席は7議席)と、ヤミナ(急進右派、党首はベネット元国防大臣、獲得議席は7議席)の両党が最後まで首を縦に振らず同調を拒否したこと。仮に再選挙になれば次の選挙はこの2年間で5度目の事態になるが、それにしてもリーベルマン氏と言うのは本当に食わせ者だと言うしかありません、10議席にも満たない少数勢力が逆恨みでここまで世界を振り回しているのですから…😩






【2021年総選挙の真の争点、それはコロナの封じ込めである】


















組閣断念に追い込まれ、この2年間本格政権の樹立には至らないBibi,だが今選挙でも第1党としての地位は確固たるもの。決定的信任がない一方、決定的な拒否でもない今の状況は安全保障、和平が選挙戦の争点にもはやなり得ない現実が反映されたもので、その契機となったのが2018年のサウジアラビア🇸🇦(事実上の権力者は父君に代わり職務を代行するムハンマド皇太子。以下、若君の国)の政策転換で、同年を皮切りにイスラエルは次々とアラブ諸国、アラブに準ずる国家との和解を実現させている。2019年の頭にはチャドとの国交回復を実現させた他、これは双方共に公にはしてはいないものの、2020年11月にBibiは若君の国を訪問、若君との極秘会談を実現させている。

これらの矢継ぎ早の外交攻勢は労働党政権でもなし得なかった快挙であることは言うまでもないが、前述のチャド🇹🇩との国交正常化、これ不思議に思われないですか?! チャドとの正常化は御大自らが訪問する力の入れよう(これはBibiが外務大臣を兼任していたからこそできる芸当なのと、リーベルマン氏との対立の根はそこなのです)でしたが、チャドは純内陸国、アラブ諸国の何れかが容認しなければ絶対に実現できないシナリオです。これはスーダン🇸🇩が容認した可能性が高く、そのスーダンとも翌2020年には国交正常化が実現している。











では、安全保障が選挙戦の争点から消えた今、争点として浮上したAgendaは何か?! それは言うまでもなくコロナ対策であるのと、実はイスラエルこそ、世界で最もコロナの封じ込めに成功した優等国なのです。それはズバリ、ワクチンの摂取率、この数値が群を抜いていること。













これは、イスラエルの国土面積がそれ程ではなく、国民皆兵の義務が背景としてある点を考慮しなければならないが、1にも2にもワクチンの接種が奏功していること。1度目の摂取で62%が、通算2回の摂取では述べ110%を超える摂取率を記録している。人口に換算すると、これも1000万人を超える計算になる…。

その効果は上記の画像を見ていただければわかりやすく、特に、4月に入って以降、感染者、死者共々激減していることがお分かりいただけるかと思います。今月5日には1日の感染者は僅か70人、死者は1人です。4月にはまた、2022年1年分のワクチン供給をファイザー社から取り付けた他、4月18日にはマスク着用の義務が解除されている。こうした目に見える成果が選挙後に顕著になったことにはもどかしさを感じますが、危機管理において見習うべきは、何も安全保障政策だけではない…😲





【Bibi・ネタニヤフと安倍前総理は、何故気が合うのか?!】














ところで、上記の動画にもあるようにBibiと安倍前総理は実に仲が良い。まず、3人兄弟の次男坊にあたり、年齢的に近いこと。助走期間が十分とはいえない中若くして首相職に就き一度は失脚、2度目の登板で一時代を築くまでに至ったこと、社会的な政策では譲歩する一方、安全保障政策では妥協しないなど共通項は実に多い。それは、Bibi自身が前総理を「Best friend」ど親しみを込め呼ぶことからも明らかだ。何より、それ以上に共通項が大きいのがBibi率いるリクードの「起こり」、なのである。

イスラエル🇮🇱の最大与党・リクード(Ha Likud.連帯の意、世俗右派)は、1973年にメナヘム・べギン元首相(1977年〜1983年まで同職、92年逝去)を創設者とし、そのリクードの前身はヘルートになる。べギン氏はこのヘルートに、他の右派政党を糾合させる形で、当時は困難だとされていた政権交代に繋げた経緯があるわけだが、何故べギン氏の試みが困難だとされていたかと言うと、べギン氏の政治的原点が、第二次大戦前、まだ英国統治下にあった頃の歩みにあることだ。平たく言えば、氏の政治的出発点は言葉を尽くして理解を得る議会政治にあるのではなく、モノホンの過激派にあったことなのだ。












ここで時計の針を少し戻すことにする。時はまだ1930年代、日本では激動の昭和の始まりの頃だが、イスラエルはまだ英国🇬🇧の委任統治下、まだ独立国家としての大願には至っていない。英国統治の枠内の中、ユダヤ人とパレスチナ人が互いに睨み合う状況下で、イスラエル側には大きく2つの潮流が生まれる。その内の一つが、正規軍に準ずる勢力として力を得ていた「ハガナー」になる。ハガナーは後にイスラエル🇮🇱が建国されるや、組織を発展させる形で国防軍(以下IDF)へと進化する。後に首相となるイツハーク・ラビン、アリエル・シャロン、後に筆頭副首相となり入植地政策の礎を築いたイーガル・アロン(アロン氏については次のエントリーで詳しくご説明致します)も、ハガナーに身を投じていた1人になる。

同時に、同組織が基礎になる形で国防軍が結成されたことは、ハガナーの主要メンバーが今度は議会政治の枠組みで本流を体現することを意味する。ラビン氏やアロン氏が後の労働政権の中核を成すようになるのは、その意味で自然な流れと言える。今から見れば信じ難いことだが、労働党は決して「反戦の党」などではなかったのである。








一方で、ハガナーが正規軍に準ずる立場を体現していたとすると、そうした考えは生ぬるい、「諸侯頼むに足らず❗️」と考える勢力が台頭してくるのも、また自然な流れと言える。その代表格が「イルグン Irgun」であり、最大与党・リクードの集会で必ず誇らしげに掲げられている男性の肖像画、日本では殆ど知られてはいませんが、この人物こそがイルグンの創設者ゼエブ・ジャボティンスキーその人で、党の理論的支柱になります。








こうした経緯を見ていて、あることに気づかれないだろうか?! そうです、イスラエルと言う国は維新の頃における長州藩とも言うべき存在であり、イルグンというのは、その意味において彼らは、もう一つの「正義党」と言うべき勢力。起こりはモノホンの過激派(今の価値観から見れば)と言っても言い過ぎではなく、その意味でイルグン→ヘルート→リクードと続くもう一つの流れは、もう片方の「草莽崛起」とも言える。維新の英雄・吉田松陰を「先生」と公言する安倍前総理の琴線に触れない筈はない。

その草莽崛起の精神を体現する正義党が、出発点はイレギュラーでありながらも次第に穏健化し理解を得るに至る。ここで言う>「次第に穏健化」の意味は、「危うさ」「寸止め」、この二重構造なのだと思う。

中でも重要なのは、この「寸止め」と言うキーワードで、歴史的経緯を踏まえていればわかりますが、長州の人たちは時代の節目において決定的に不利な選択はしなかったではないですか。

例えば、件の長州正義党は当初は「完全攘夷」を志向していたが、文久3年の4ヶ国戦争で完敗するや、完全攘夷など不可能と悟るや、一夜にして尊皇開国に転向したことは、その典型例だと言えるだろう。こうした合理主義の一旦は、文久年間の段階から垣間見ることができる。最も吉田松陰自身が黒船襲来の翌年に米国への密航を試みていた経緯を考えても、彼らは水島社長のような、いわゆる「ゼノフォビア」ではない。完全攘夷など、どこまで本気だったかは疑問だがな😲 


ちなみに、草莽崛起と言うと、例のCS放送局(笑)が連想できますが、私などが、水島社長が件の放送局を立ち上げた時に感じたのは、







「あぁ、きっと過激なことをやるんだろうな」





と言う印象で、無名戦士よ立ち上がれと言うことで草莽だが、既存の幕藩体制の打破を志向するわけだがら、趣としてはクーデター宣言に近い😲









決定的に不利な選択を回避する意味では、安倍前総理の祖父・岸元総理もやはり同じで、大東亜戦争末期の昭和19年、サイパンが米軍の攻勢で陥落し、日本側の敗色が濃厚になるや、一転して東条内閣の倒閣に乗り出す。岸元総理が終戦後、一旦は戦犯指定をされながら起訴には至らなかったのは、こうした経緯に起因する。

何より、戦闘続行は不可能との見方を早い内からしていたことは、決してやってはならない「本土決戦」を回避させることを意味する。リベラル派の人たちからは、世紀の極悪人のように見られている元総理だが、この岸元総理こそ、昭和天皇のお心に近かったのだ。元総理を語る上で第一に語られるのは、安倍前総理が政治家としての原点と公言する昭和35年の安保改訂(60年安保)になるが、決定的に不利な選択、本土決戦だけはしてはならないと言う観点において、この2つに矛盾はないのである。つまり、「寸止め」の力学がここでも作用するのである。

一方でそれとは反対に、寸止めの力学が働くことがなく歴史の彼方に消え去ることになったのが水戸藩になろう。尊皇の下地となった「水戸学」発祥の地にして、これは一般には知られてはいませんが、常州は楠木一族終焉の地。それ故にだろう、最も先鋭化した政治勢力としての「天狗党」を輩出したのも水戸藩でありました。左右どちらであれ、先鋭化しすぎた政治勢力は後の軌道修正を困難にする。時代の先駆者でありながら、彼らが御世代わりの中で退場を余儀なくされたのは何とも皮肉である。


















話が昭和35年の安保改訂に及んだ為、当時の反対派の急先鋒についても触れておかなければなるまい。反対派の急先鋒は当然ながら大学生、それも当時東京大学の学生だった西部邁氏(後に東京大学教授、秀明大学学頭を歴任。平成30年自裁)と、西部氏の2年後輩だった酒鬼薔薇英資さん(笑)になるが、あの安全保障関連法の時と比べると当時のお歴々は実に“重厚”だ😲 その一方で、あれ程忌み嫌った元総理について、最初に評価に転じたのが西部さんその人だったことも興味深い。これは西部さんご本人も後に、






「俺、考えてみれば安保条約の条文なんか一行も読んだことなかったよ」






このように述懐しているように、安保改定はイデオロギーの闘争と言った高尚なものではなく、むしろ、自我に目覚めた少年が父親に反抗を始めたようなものなのかもしれない。生前の氏の考えには賛成できないことが多かったが、西部さんがどこかしら憎めないご性格だった背景は、知らないことは知らないと言う人間的な誠実さだったように思う。










【ヘブロン合意、明日の勝利の為の決断】











正義党同様、イルグン〜ヘルート〜リクードと続く流れが、過激派からの出発だとすると、彼らも長州藩と同じように、危うさと寸止め、この二つの顔を持ち合わせていると言うこと。そして、ここでいう>「寸止め」の政治決断の一例が、78年に米国🇺🇸の仲介で実現したエジプト🇪🇬との和平合意(キャンプ・デイヴィッド合意)になろう。これも驚かれる方は多いだろうが、その際、当時のべギン政権はシナイ半島に設けられた全ての入植地を完全排除させている。その際強制排除された入植者は3000人近くに上るが、この事実は後のガザ撤退計画における前例ともなる。同時にシナイ半島の全入植地の完全排除は、同国🇮🇱が最初に行った領土的譲歩になる。

そして、リクード政権が次に下した重大な政治決断が、97年の頭に下した「ヘブロン合意(Hebron protocol)」になろう。そして、一般には耳なれないこのヘブロン合意こそにネタニヤフ外交のリアリズムが集約されている。どう言うことか。

ヘブロン合意本題に入る前に、90年代、国際的なイスラエル悪玉論の対等と共に具体化した対パレスチナ🇵🇸和平交渉、ここについてまずは説明をしておきたい。90年代における対パレスチナ和平の中で、具体的な合意に至った例が4例ある。一つはご存知のように「オスロ合意」(Oslo accord)、正確にはパレスチナ暫定自治合意と言う名称だが、この名称が用いられることは殆どなく、事前交渉が行われたノルウェーのオスロでの🇳🇴実務者合意を反映し、オスロ合意と呼ばれる。

このオスロ合意は、やはり日本外交の手足をこの間縛り続けた「河野談話」と何かと重なる部分が多く、時系列的にも2週間ほどしか離れていない。オスロ合意については後に詳しく説明していきたいが、この合意はイスラエルの一方的譲歩では実はない。それが、労働党の右派(バラック元首相など)からも慎重論が強かったのは、イスラエル側の実務者がヨスィー・ベイリン氏だったことだ。ベイリン氏はイスラエルの政治家の中で、最リベラルに属するからだ。










そして、件のオスロ合意を起点とする形で次に締結されたのが、ガザとジェリコにおける先行自治が盛り込まれたカイロ協定(94年)、3つ目がIDFがイェフダー・ショムロン(英称:West bank)のどの地域から撤退するかを定めた「ターバ協定」(95年締結、第2オスロ合意とも称される)になるが。先に私は、オスロ合意がイスラエルの完全譲歩でないと申し上げたが、その回答はターバ協定に目を向ければよくわかる。そして、このターバ協定こそが、故ラビン元首相の「遺作」になる。そして4つ目の和平合意こそがヘブロン合意になる。













イスラエル🇮🇱と言う国が、鏡に映った「もう1人の俺」だとすると、オスロ合意、いや、それよりも前の91年のマドリード会談に端を発する和平圧力は、さながら彼らにとってのロンドン海軍軍縮会議だ(あの統帥権の干犯に直結する)。そのような状況に立たされた時、どのように立ち振る舞うべきか?! 最も賢いのは具体的な履行義務がある項目は遵守し、それ以上の譲歩を回避すること。ネタニヤフ政権がこの12年信任されてきた理由、それは、







「これ以上、決して失うわけにはいかない!」






この一貫したメッセージにより国民の信任と、穏健な左右両派の結束を促しているからなのですよ。そして件のヘブロン合意と言うのは、何れの和平合意においても「グレーゾーン」として残された項目であること。そのグレーゾーンについては実利を取る形で解決を図ると言うこと。







【明日の勝利の為の決断とは、場合によっては支持者を斬る決断を意味する】
















 ヘブロン合意(Hebron protocol)、これは宙に浮いていたヘブロンについて、同地域を2つの地域に分割し解決を図ると言うもの。この論争に決着がつけられたのが97年の1月になる。上記の画像にあるようにパレスチナ人が圧倒的に多い西側の部分が「H 1」(こちらは自治政府が行政と治安の両面を担い、IDFは追加撤退する)、もう一つが引き続きIDFが治安維持を担う東側の部分が「H2」になる。和平合意を巡っては、何より揉めたのがH1とH2の面積の差になる。H1が総面積の8割を占めるのに対し、H2は2割、一見すればイスラエルが一方的に譲歩したかのような印象を受ける。

実際、合意案の上程を巡っては党内の強硬派は猛反発、合意を良しとしない党内強硬派のベンジャミン・べギン(べギン元首相の長男)、ミヒャエル・クライナー(読んで字の如くアシュケナージ系のユダヤ人です)氏らは党を離脱。最初のネタニヤフ政権は、十分な助走期間がないまま政権樹立に至った為、彼らの離脱は少なからぬ打撃であった。こうした点も一期目の安倍政権と重なる部分が大きい。その1期目の安倍政権を攻撃したのは朝日新聞や財務省だけでなく保守勢力も同様で、これも一般には知られてはいないが、件のCS放送局などは上杉隆と一緒になって政権批判に躍起になっていた。








離反したべギン氏とは、政権奪還前の2008年に一旦は関係修復がなされたものの、再び対立関係に逆戻りしている。べギン氏は本年の選挙で、リクードから文派した「新しい希望(New Hope)」から出馬し再び議席を得ている。両者の関係はその意味で愛憎愛半ばする関係と言って良い。



話が上杉に脱線して申し訳ない🙇‍♂️ このように、一見土下座外交に見えるヘブロン合意は、内容を具に見てみると中々の高等戦術であることがわかる。

・ヘブロン(Hebron,ヘブライ語で「友人」の意)、アラビア読みではアル・ハリールというが、奇しくもその意味はヘブライ語同様友人になる😲 そのヘブロンは、ベツレヘムから南におよそ30km降ったパレスチナ人が多数を占める町でユダヤ教、イスラーム教、その双方にとって聖地というべき地。べギン氏やクライナー氏らが強硬に反対した経緯も、その根が宗教的背景に起因することがお分かりいただけるのと、何より当時は94年のヘブロン乱射事件と、翌95年のラビン元首相暗殺劇により、イスラエルは「どこまでも譲歩すべきだ」と言った、「時代の空気」が支配しており、これを頭から拒否することは得策ではない。








何より、ヘブロン全域をイスラエルが保持し続けることは、国としての自殺行為を意味する。それはヘブロンの人口比率を見ればわかる。ヘブロンの人口は97年の時点で11万人(現在では20万人を超える)、当然全体の9割以上を占めるのはパレスチナ人になる。つまり、望んでもいないような不安定要因を抱え込む構図が継続されるのである。その意味では、発端は米国の外交圧力だったとは言え、ヘブロン合意はネタニヤフ政権にとって「渡りに船」だったのではないか?! 分離されたH1はパレスチナ側の牙城であるのに対し、H2はどのような意味を持つかまず小規模ながらもH2にはユダヤ人入植地(Settlement、Beit Romanoなど)が点在する他、94年の乱射事件の舞台となったマクペラの洞窟が含まれる。当然この地は右派でなくとも死守すべき一線だ。この特別な地が新たな枠組みで残ることになる。ヘブロン合意と言うのは理解としては、やはり保守層から不人気だったアイヌ新法のようなものだと思う。政治の世界は、名を与えても実を与えない考えがある。イスラエル外交においても、単純に白か黒かの二元論で物事が動いているわけではない。











もう一つ↑上記の画像を見ていただいて気づかれたことはないですか?! そうですH2を睨むかのようにキリヤット・アルバ(Kiryat Arba)と言う入植地が隣接しているでしょう。このキリヤット・アルバと言う入植地が重要なのは、人口は7000人余りの中規模入植地ですが、建設が始まったのは1968年、Settlementの中では当然最古参の共同体で、これについては次回以降詳しく後述しますが、決死隊的な入植地の一つです。私がここで過激派とは言わず、決死隊という言葉を用いたのは、暗黙の了解として歴代の政権や軍関係者も、口には出さないながらも彼らを制御役として必要としていたことが指摘できます。H2を交渉の中で残したことの意味はここなのです。H2を譲らないことは抑え役としてのキリヤット・アルバを守ることにも繋がることは勿論、後年のことになるが、2020年に米国が提示した、いわゆる「トランプ和平案」。この案で目を引くのは、仮に同案を軸に国境線が確定するとするとキリヤット・アルバは安堵される公算になる。ヘブロン合意は無論、米国の仲介の下に成立した経緯があるからだ。明治の御代においては明日の勝利の為に堪え忍ぶことを「臥薪嘗胆」と言ったが、似通るのは当然だろう。彼らは、周回遅れで同じ道を歩んでいるのだから。

私が何を言いたいのかと言うと、政治家は時として支持者を切る決断を迫られる局面があると言うこと。リアリズムと右派の論理は本来対立する概念であるからだ。そして支持者を切る決断ができた指導者こそが賢明な指導者であり、それとは反対に支持者や側近に引き摺られた指導者は賢明な指導者とは言えない。

何より、同合意案を改めて見直して見た時、驚くべきは上程に至るまでの時間の流れの早さだ。米国のデニス・ロス大使の仲介による両者の合意がなされたのは1997年の1月13日、それが議会の上程・採決にかけられたのが1月17日だから、それ程事態が一気呵成動いたことを意味する。最終日の審議時間は10時間に及んだものの、これも終わってみれば87対17の大差で可決。反対に回ったのはべギン氏やクライナー氏ら党内の一部とモレデット議員らに留まっている。数字の上でもBibiは間違いなく勝利を果たしていることがわかる。しかも、論争を読んだオスロ合意は議会案件ではないが、Bibiは正攻法で議決にかけている。

そして、ヘブロン合意が実際にはパレスチナ側に実を与えない「アイヌ新法」だったとすると、その前段であるオスロ合意、ターバ協定も同じように一方的な譲歩ではないことを意味する。次のエントリーでは、それがどう言うことなのか詳しくご説明したいと思います。


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