「ピアノの森」という漫画で描かれている、日本の競技大会では、楽譜どおり引くことが何より重視され、観客をどんなに感動させても優勝できないという事情。
一方で海外の大会では、ある程度は演奏者独自の表現も許され、観客を感動させられなければ優勝できない。

自分は、ピアノの専門家でも、漫才の専門家でもないけど、一お笑いファンとして危惧するのは、M-1で会場のウケより、漫才の形式論ばかりが重視されてしまうこと。
そもそも、漫才のルーツが古典芸能の萬歳であるにしろ、米国のダブルアクトにあるにしろ、いま現在のスタイルは大分変容しているはず。特に、お笑いに参入する人口が増えて過当競争になり、M-1が国民的な競技大会に成長してからは、競技漫才の進化と多様化が加速した感があります。

もちろん、少ない持ち時間に爆発的なウケを多数求められる競技漫才への進化は、より長尺が許される劇場での漫才と乖離している部分あるでしょう。

それでも、専らTVでしかお笑いを享受できない地方民としては、TVサイズのお笑いが次々と供給してもらいえるのは嬉しい限り。

なので、求めているのは観て単純に笑えること。

「漫才らしさ」などという似非評論家の拘りは、老害でしかありません。

とにかくおもろいかおもろくないか、ウケてるかウケてないかを基準に、M-1が決勝進出者と優勝者を決めてくれている内は、自分らトウシロは、笑っていられそうで幸せな限りです。

一番危惧するのは、どんなにウケをとっていても、「漫才らしくない」といって予選で闇に葬られちゃうことです。

最後に「マヂカルラブリーのネタ(フレンチ, 吊革)が漫才かどうか」という問いには、「漫才大会であるM-1の予選を勝ち抜き、決勝大会で優勝したんだから、漫才です」という、至極当然な回答を明示しておきます。



因みに、自分のイチオシは、おいでやすこがでした。