東京の真夜中の空は明るい。地上から飛び出した光の粒子が夜の帳の周囲を賑やかに飛び回っている。星々は居場所を無くして別の空へと飛び立ってしまったようだ。

 

輝く光があれば、飛び立ってゆく光もある。それは何も真夜中の空に限った話ではない。自然界でも人工的な世界でも、そういった現象はそこかしこに見受けられる。

 

ピグの世界で俺が所属するコミュニティ、帝光麻雀部でもそういった現象は起こる。新しい部員が加入し麻雀を楽しむ一方で、かつて一緒に麻雀を楽しんでいた雀友が静かにその姿を消してゆく。俺も歴が長い方になってきたから、本人を介さずともいなくなった理由が耳に入ってきたりもするし、事情は様々あれ人がいなくなる場合というのは個人か部のどちら側かに何らかの不満が生じたからという場合が多い。

 

人間関係というものは難しい。心理学的に言えば、人には相性の良い相手というものが2割存在する一方で、どうにも相性の悪い相手も同様に2割存在する。致命的に相性が悪いという場合もあるが、そうでなければ相性の悪さを改善させるということは可能だ。可能だが、そうした場合にはこれまで相性の悪くなかった相手の中から新たに相性の悪い相手が創生されてしまう。人間の脳というものは、時々理解し難いほどに厄介だ。馬鹿馬鹿しいから、俺は相性の悪そうな相手には無理に絡まないことが多い。別に、改善を試みながらやっていくのだって良いだろう。まとめる立場の人間ならばそうしたスタンスも必要かもしれない。但し、ただ噛み付くだけなのは愚かだ。

 

人と人との相性に加え、麻雀というゲームの性質がその難しさに更に拍車をかけている。麻雀は他の知的ボードゲームに比べ、圧倒的に運の比重が大きい。めちゃくちゃに頭を使うスゴロクのようなものだ。運の悪さは不満に直結しやすい。しかも、麻雀は個々の打ち筋がその人の思想を色濃く反映する。その打ち筋を見て、なんでそんな牌が出るんだなんて感じることは日常茶飯事だ。

 

麻雀を打つ人の思想は、大きく分けると2種類に分別されると思う。麻雀をコミュニケーションツールとして楽しむために打っている人と、勝負の極みを求めて打っている人だ。ここが違うと関係性に問題が生じやすい。麻雀を楽しく打ちたいだけの人が打ち筋について細かく指摘されれば嫌気が差すし、勝負の極みを求めている人は他人の一打一打を重く見がちだ。同じような思想の人同士でさえ、雀風の違いだけで簡単に齟齬が生じてしまう。実際にそういった理由が絡んであの人とは打ちたくない、この人とは打ちたくないなんて話は掃いて捨てるほど耳にする。麻雀は実は人間関係を壊すために作られた兵器だったのかもしれないと思うくらい。

 

ちなみに、俺は帝光麻雀部内でこの人とは打ちたくないと思う人はいない。俺は勝負の極みを求めて打つ方なので他人の打牌についてあれこれ注文を覚えることはしょっちゅうだが、自分にとって理不尽だと思える打牌に対応するのも麻雀の一部だと思っているからだろうか。或いは、麻雀には興味があっても人にはあまり興味を持たないタイプなのかもしれない。良識人ぶる気が全然ないのでこれもついでに言っておくと、部外には打ちたくないなと思う人が3人いる。俺の打つ速度が遅いと文句を言った人と、オーラスに裏ドラ頼みのリーチをかけて和了った時に確定和了りするなと文句を言った人だ。俺は攻撃ならぬ口撃が大嫌いなのだ。そして他人の口撃に厳しい一方で、自分の発言に対しては寛容だ。俺が發待ちの大三元を聴牌した時に發はどこだと騒いだ人を咎めたし、同じ形で大三元を聴牌した時に特別警戒警報と発言した人も咎めた。まあこれは相手の発言が先だし唯の文句とは趣旨が違ったのだが、麻雀をワイワイ楽しく打ちたい人にとっては同じかもしれない。

 

さて、ここまで人の相性と麻雀が入り混じった場合の人間関係の難しさみたいなことについて書いてきたけれど、誤解が無いように言っておくけれど帝光麻雀部だけが特別人間関係のトラブルが生じやすいといったことは無い。活気付いているコミュニティならどこも似たようなものだ。また、部を辞めたり辞めさせられた人が悪かったという話でも、部のほうが悪かったという話でもない。その時の理由が、麻雀に対する思想の相違からきているという話でも全然無い。先でも述べたとおり、退部にまで至る理由はさすがに様々ある。

 

ただ、夜空の星のように、スゥッと消えてしまった人たちのことを時々想う。今いる部の仲間には大して関心を示さないくせに、いなくなると気になるなんて、全く俺も随分自分勝手な野郎だあね。