一期一会で気持ちを伝えると決めた
母親の手術は成功しましたが、最低1か月の入院が必要になりました。
主治医の先生から病状について話を聞き、80代後半で高齢ゆえの急な症状の変化があるかもしれないので、心に留めておいて(要は覚悟しておいて)下さいと言われました。
その頃には既にコロナ患者のニュースがあちこちで出始めており、何か変な病気が中国の武漢という町で発生して、観光客が日本に持ち込んでいるらしい、と噂が出始めていました。
当初から病院には、入院時に最低限の身の回りの物(タオル・シャンプーや歯磨きセットや石鹸など)だけを持って行き、他のものは全て病院からの貸し出しになっていました。術後も週二程度の面会(しかも短時間)になっていたので、なんとか顔を見る事ができていました。
大人しく看護師さんに面倒を見て貰っている母親は、幼い子どものように小さくなっていました。
私の恨み悲しみを受け止める力など、残っている様には見えません。
また数週間歩かなかった事でふくらはぎも細くなり、自力で歩けないどころか支え無しでは立てなくなっていました。
2月に入り、いよいよ子どもの大学入試の2次試験が迫り、私も子どもも忙しく頻繁に病院に行く時間が取れなくなったので弟達にお見舞いは任せることにしました。
術後の予後が悪く、傷口が膿んだりしたので退院が長引くことになったのです。
母の事も心配でしたが、不貞男との第二次離婚調停が数年後に迫っているこの状況で、子どもを大学浪人させる経済的余裕はありません。
モラハラ化した後は、お互い大卒だったにも関らず偏差値マウントを取られる事もあったので、私自身の為にも現役で志望校に合格してほしいと思っていたのです。
高校の0校時(7:30開始)の授業に合わせて6:00に起床し、弁当を詰め、6:45に車で子どもを学校に送り、8:00に帰宅し、2時間ほど仮眠を取って朝食を取り仕事に出かける準備をすると、とてもじゃないけど平日は病院に行く時間は取れません。
怒涛のように2月は過ぎてゆき、気が付いたら入院してから1か月半が経過していました。
横浜で、クルーズ船からコロナに感染した乗客を降ろさないという事件が発生し、コロナウィルスという言葉がニュースで頻繁に取り上げられるようになっていました。
マスク使用が義務になり、連日コロナの文字がニュースで聞かれるようになっていました。
二次試験で家を数日留守にする前に、子どもと私でお見舞いに行きました。面会制限が始まるギリギリのタイミングで、親子・孫の三人で話をする事ができました。
不思議な事に手術等で体調が苦しかったにも関らず、入院前より母親は穏やかで柔和な表情になっていました。
入院生活で周りに患者や医療従事者がいたため、毎日世話を色々焼いて貰い、孤独を感じずに生活できた事も精神状態にプラスに働いたようで、和やかな時間を過ごすことができました。帰り際に、
「受験頑張ってね。 お祖母ちゃんも病室から応援しているからね」と言い
「忙しいのに、面倒賭けてごめんね。 ありがとね」
と、私に声をかけたのです。
側から見ると、ごく普通の会話なのでしょうが、物心ついた時から母親からお礼を言われる事が殆ど無かったので、びっくりしました。
同時に、胸の辺りが暖かくなる感じがしました。
そう、こういう会話がしたかったんだと思いました。
次はいつ会えるだろう。
毎回、最後の面会になるかもしれないと思って、後悔しないで済むようにしよう。
と、母親の為というより、自分の為に優しい時間を持ちたいと思ったのでした。
サレ妻復活日記23 に続く