2001年ぐらいからわかってきたことだが、結局相手を選ばないと、どんなに努力しても良好な人間関係は築けないのだと思う。

最初の会社で、明らかに自分が80%以上悪いのに、その責任をあまり関係ない他人になすりつけている人をそれなりな数見て、そして大学時代のロシア語を思い出し、結局、そういうジャンルの人たちに対して、どんなに誠意を尽くしても、搾取されるだけだということを悟った。

どんなに友好的になろうとしても、こちらが尽くしたとしても、搾り取られるというのがオチ。

でもそれを悟ったはずなのに、また今の会社でも同じようなことをしてしまった。相手の感じが悪いと、つい自分が悪いのかなとか思ってしまって、私の伝え方が下手なのかなとか、色々考えて、こちらの誠意をわかってもらえるように、一生懸命頑張ろうと思って、もうこれ以上できないぐらい頑張っても、結局理不尽に八つ当たりされたりする。

私は、自分のインプットが悪いから、相手から返ってくるアウトプットが悪いのかと思ったのだが、そうではなくて、そういうジャンルの人というのは、その人の中の処理式、つまり性格が、通常陣とは異なるのだろう。だからあまりにも変わったインプットを入れない限りは、常に他人をしゃぶりつくして利用しようとするアウトプット以外は返せないのだろうと思った。

そんな中、気になるネットニュースが。
http://www.yomidr.yomiuri.co.jp/page.jsp?id=30330
「敗者」の悔しい表情を見た「勝者」の脳の反応を、放射線医学総合研究所(千葉市)の研究チームがとらえたとのこと。きゅうさんのTwitterから見ました。自己愛が強い人ほど、敗者の悔しがる顔を見て喜ぶとのことです。相手に同情しがちな人は、ほぼ喜ばないとのこと。

そして、もうひとつ。
http://news.livedoor.com/article/detail/4978542/
http://www.wired.com/wiredscience/2010/08/do-gooder-dislike/
「利己的でないメンバーをグループから放逐したいという願望」と題された論文(『Journal of Personality and Social Psychology』に掲載されたもので、4本のシリーズ論文のうち1つ)によると、「利己的でない人」はメンバー全体に求められる「基準」を引き上げてしまい、他の同僚たちを「悪く見える」ようにするため、同僚たちの恨みを買うことになるという、とのこと。

人間は多かれ少なかれ自分を基準に判断してしまいがちであって、だから性格が悪い人とか、利己的な人って、自分にない利他的な人を見ると、自分を基準に判断して、自分だったら相手を陥れたり自分を上げるためにわざと利他的なふりをするとか思って、そういう風に利他的な人を勝手にきめつけるのかな、と思った。

でもこちらの論文の方は、別に攻撃的性格が強い人とか、自己愛が強い人のサンプルに限ったわけではないようだが。

今回の尖閣の中国対応を見ていてもそうだけど、結局攻撃的な人っていうのは、こっちの「こちらが譲歩したら、わかってもらえるだろう」という論理が通用しないんだよね。

「友愛」とか「世界平和」とか「Love」とか「博愛」とかっていうとすごいきれいだけど、そしてそういうことができる人間になりたいとは思っていたけれども、私はマザーテレサやガンジーのような立派な人間ではないので、誰に対しても相手を問わず、博愛主義的な対応を心がけていると、結局、こういうタイプの人に搾り取られて、それに傷ついて悔しくて泣いて、で、そういう心が傷ついたゆえの余裕のなさから、こういうタイプ以外の人に対しても、優しくできなかったりして、なんだか、どうしようもない悪循環になってしまうように思う。

だから、まずは、信じられる相手と、愛せる相手と、まあまあそうな相手に対して、友愛的に、愛情をもって接して、そこがきちんとほぼ完全にできるようにもしなったら、それから、もう少し性格が悪そうな人にも愛情をもって、友愛的に接するように努力していこうかと思う。

パーソナリティー障害者への関わり方として、「木で鼻をくくったような誠実さ」という言葉があるらしい。彼らは人との距離の取り方がわからないから、普通に優しく接すると、どこまでも依存してきて、結局こちらも受け止めきれず、向こうも病気が悪化して、大変なことになってしまうので、あえて隙を見せずに、あえて事務的な対応しかしない、共感や同情を示さない、それが逆に過大な期待を人格障害者にもたらさない、誠意であるという意味のようである。

パーソナリティー障害者や、それの疑いがある人に対しては、もちろん必要な手助けや配慮はするけど、出来る限り事務的にしか関わらないこと、愛情を示さないことが、逆に関係性を保つコツとも言えるのかもしれない、と思った。