「いやあショックだ、とくかくつらい。もう五十代になっていたとはな。老いをこんな形で知るなんて」
「おそろしいよね、耳年齢って。私も四十代なのよね。そんなに酷使したつもりはないはずだけど」
「まったく知らないうちに、神経や細胞が確実に失われているんだよな。さらば青春の日、だな」
「五感で矯正がきくのは視覚だけかしら。聴覚は補聴器をつかえるけど、高音域は拾えないよね」

それをつかむ神経細胞が消失しているので、再生医療が発達しない限りは二度と取りもどせない。
メガネもボヤけた焦点をあわせるだけにすぎず、失われた色彩をふたたびキャッチすることはない。

「そう考えると、なんか切ないわ。目の前の景色が昔はもっとカラフルに見えたってことだから」
「音にそうだよな、とくに表現する側は。年食ってから過去の作品には、手をつけぬが吉ってことだ」
「そのときの創造物の土台になった感性は、もう帰ってこないからね。経験は積んでいるけど」
「どうだろうな。想像することもできないんだぜ、その世界を。人生はシンプルになるしかないのさ」

感情は、感覚器官の情報を集約したうえの判断が表出したものだ。迷えるのは若者の特権である。

「俺も学生のころはすごく迷ったよ。昼飯をラーメンかカツ丼、それともニラレバ定食にするかってな」
「そういうことじゃないでしょ。好きな子がいても、よけいなことばかり考えて行動に移せないようにね」
「その点、俺はまったく動じなかったぞ。なにしろ迷えるだけのチャンスがなかった。哀しいくらいにな」
「それはたんに、そういう雰囲気を見せなかっただけじゃないかしら。それこそ感情を表出しなきゃね」

女性の前ではそれなりにアピールしたつもりだが、どうも彼女らの感性とは違った方向だったようだ。

「シャレた会話ならともかく、とにかく食べ物ばかり話してたから。でも、その味覚は碓かだったけど」

他の女性の味見はほどほどにね、とニヤけながらいう。まだ君を味わいきってないから、安心しな。