「ビールとともに、夏はやっぱりザルそばだな。このスーパーで買ってきた安っぽい味がたまらん」
「本当に麺類がすきよね。まだ晩御飯前なのに、そんなのたべてお腹いっぱいにならないの」
「これくらいは別腹だよ。俺にとっては前菜のようなものだ。しかもワサビが食欲をそそる」

じつは数年前まで、ワサビを食べることができなかった。ある種のPTSDが働いていたからだ。

「あれは物心つく前だったかなあ。兄貴がもってきた
ワサビの麦茶を飲んでトラウマになった」
「ひどいイタズラよね。私もそのころは食べられなかったから、すぐに吐きだしちゃうわ」
「ああ。俺も台所で吐きまくったよ。そばでゲラゲラ笑う兄貴の顔をいまでも忘れない」
「私だったら、仕返しに唐辛子をいれるけどね。それか、ワサビ入りのメロンジュースとか」

なにしろ幼かったので、そういった発想はわかなかった。ともあれ、それ以来ワサビは天敵となる。

「なにがうまくてこんな辛いのに飛びつ
のか不思議だった。唐辛子系は平気だったがな」
「私も学生くらいのころに、ようやく寿司屋で苦労しなくなったわ。今でも少しだけでいいけど」
「なにしろあのツンとくる香りだけで食欲を失ったんだよ。その日の夕食は、食わず終わりさ」

たまに親戚が訪れたときは寿司屋で出前を頼んでいたが、サビ入りだったことの失望感は強烈だ。

「サビをなんとか自分でよけてみるんだけどさ、やっぱり残るんだよ。全然、食べられなかった」
「じゃ、どうして平気になったの。さっきも山盛りに入れてたじゃない。舌が麻痺しそうなくらいに」
「たしか三貫100円という、恐ろしく安い寿司屋へ行ったときだ。それがすべてサビ入りだった」

その場で戸惑っていると、友人がアドバイスした。たんなる薬味と思えと。ネギやパクチーのように。

「そう自分に言い聞かせながら試してみたら、これが新しい味の発見だったのさ。世界が広がったよ」
「自己暗示って大切なのね、あなたって思いこみが激しいから。なんかね、私もワサビだったのかしら」

ツンとすます態度が効いてるぜ、なんてことは口にしない。デレられたときの対比を楽しみたいからな。