バイクで五大陸をかけぬけた男が、この世を去った。天国でのツーリングには、まだ早すぎる。

「俺が海外旅行好きになったのは、彼の影響なんだよ。それまでの価値観の否定が旅、だとな」
「あなたにつられて彼のバイク旅行記をよんだけど、ちょっと女には厳しいものはあったけどね」
「まあ、およそオシャレな店や世界遺産を巡るわけでもないからな。その国を肌で感じるというか」
「私もそんなのを期待してるわけじゃないけど、やっぱりアフリカや南米はちょっとこわいのよね」

全旅行記を読破したが、もっとも面白かったのはアフリカ編だ。およそ日本人の理屈は通じない。
いわゆるブラックアフリカとよばれる中南部に住む彼らの暴力性が、ヒシヒシと伝わってくる。

「とはいっても嫌悪していないんだよ。ただ規律や規範のない土地での苦労は、想像できないよな」
「それにくらべると、私たちは阿吽の呼吸でなりたっているものね。必要以上に気づかうというか」
「国が違えば常識がことなることをもっと知らなきゃいけないんだよ。そして、その面白味も」
「さすがにトイレだけは、何とかしてほしいけどね。郷に従えとはいわれるけど、こればかりわね」

常識が根底からくつがえされることは、ある種の恐怖をともなう。アイデンティティの崩壊にちかい。

「俺もベトナムへ旅行したとき、空港からのったタクシーで思いきり騙されそうになったからなあ」
「お釣りを半分くらいごまかされそうになったんだっけ。最初の体験がそれじゃ、へこむよね」
「ああ。なんてひどい国だと思ったが、それくらい必死なんだよな。生きるってことの意味は」
「だから、彼の本を読むのに時間がかかったのよ。常識で消化できないことが描かれすぎていて」

大人になると、あるべき姿というものを意識させられる。他人の目線など本来は気にすることはない。

「やりたいように生きろってのを彼の親父さんから受けついだそうだ。俺もそろそろそうしていいかな」
「あなたはいつだって、好き勝手にやってるように見えるけど。遠慮は無用よ
私もそうするから」

まずはタンデムツーリングを提案した。一週間ほどの盆休みに、ライダーズハウスでにぎわう北の地へ。
二つ返事でOKした彼女を後ろに乗せることが、今一番やりたいこと。旅のきっかけをくれた彼に、合掌。