外出中に時間があまったので、ひさしぶりにネットカフェへよった。三時間プランで千円。
ソフトドリンクは飲み放題で、もちろん漫画も読み放題。いまさらだが、じつに便利な空間だ。

「気になっていた漫画の一気読みをしたよ。いまやスマホがあるから、PCはいらないんだよな」
「私はいったことがないけど、一時間でも利用できるのね。いくらだっけ」
「だいたい300円から始まるか。それだとネットは使えないんだったかな。まあ、それで充分だ」
「喫茶店で時間をつぶすよりは、有効かも。フリードリンクだったら、漫画の分だけ得になるのね」

ネットカフェ難民という言葉が流行ってから数年たつ。いまでも利用者は数多いはずだ。
最低限の娯楽設備があれば、男ならば部屋の広さなど関係ない。彼女連れはできないが。

「プライバシーの基準をどこにおくかで、部屋の広さがかわるんだろう。その対価も比例するが」
「あまりに広すぎると落ちつかないけどね。昔の貴族なんて、一人で10以上の部屋があったんでしょ」
「それなりにメイドが世話してたんだろうけど、俺は絶対いやだ。なんでも手にとどく広さでいい」
「物をためこむクセのない人だったら、それでいいんでしょうけど。私も断捨離をしなきゃなあ」

いまや知識はネットでいくらでも見つかる。人類の知恵の集合体がWWWと、創世記にいわれたものだ。
だが、モノというかたちで残したい記憶は確実にある。物理的に手につたわる重みは、想像以上に深い。

「いわゆる愛着ってやつだ。赤ん坊がお気に入りの哺乳瓶を離さないようにね。俺もいくつかある」
「私もあるなあ。この腕時計もかなリ古いんだけど、お母さんから卒業記念にもらったものだから」

モノと記憶の結びつきも、いずれはバーチャルで補えるのだろうか。ネットカフェ住民は最先端かも。
だが、とても真似できそうにない。なぜなら記憶は変化する。一緒に歩む伴侶の体温とともにね。