「突然だけどさ、人は死んだらどうなるのかな」
「なにをいいだすのよ。そんなの考えたくもないわ」
「いやあ、なんかふと思ってね。魂だけがふっと抜けるのかなって」

先日、葬儀屋につとめる男性とバーで出会い、一日の仕事の流れを聞いた。
およそ緊張をぬくときがなく、遺族のサポートへ徹することに集中するそうだ。

「だからこそ、残された人は遠慮なく悲しめるのね」
「実際はそうでもないらしいよ。少なくとも初七日までは、やることがありすぎて」
「そんなところまで、日本人のワーカホリックな性格がでるのかしら」
「どうなんだろうな。悲しむ時間が長ければ、それだけ社会復帰が難しいからかも」
「私はいやだなあ。思いきり泣いて、悲しんで、その思いを引きずってやるわ」

それは愛を焦がした相手にたいしてなのか、それとも自分自身のためだろうか。
たしかに喜怒哀楽を思うようにできない状況や社会は、どこかおかしい。
ただ、あまりにショックな事実を現実として受けとめられない瞬間もある。

「だから泣くのよ、無理やりにでもね」
「俺は、はたしてそこまでできるかなあ。そのときにならないと分からないよ」
「あら、私のために泣いてくれないの。ちょっと寂しいわ」
「そういうことじゃなくてね。ここ数年、泣くという作業をしたことがないというか」

映画やドラマで涙を誘われるシーンはあるが、目に浮かべるくらいで号泣にはほど遠い。
だが女房は、よく泣く。とにかく泣く。泣いている自分に酔っているようにみえる。

「その涙の源泉はどこにあるのかってくらい、大泣きするよな」
「オーバーね。でも、どこかで無意識に泣かなきゃ損と思っちゃってるかも」
「ある意味、練習しているのかなあ。俺の葬式を」
「それはないわ。私、あなたの葬式だけは絶対に泣かないから」

そのころには、涙とともに愛情も涸れてしまっているのだろうか。
しばらく言葉につまっていたら、軽い笑いとともに女房がつぶやいた。

「泣いちゃうとね、あなたの魂が見えなくなるから。必ずつかまえてやるわ」

そう言いながら甘いものをパクつくのはやめてくれ。白内障には絶対にさせないぞ。