14年前の今日、生まれて始めての経験をしました。
当時、実家に両親と住んでいた私は夜明け前に突然目が覚めました。
(いつもはそんなに早くは目覚めません)
途端に、ドンッ!!と下から突き上げるような衝撃。
「!?」
続いて、グラグラグラッ!!!
見ると本棚が、ゴンゴン揺れて今にも倒れてきそうです。
慌てて飛び起き本棚を押さえましたら、慣性の法則で中の本だけがドドドッと落ちてきます。
(何やこれは?戦争でも始まったのか?)
それでも揺れているので、本棚を押さえ続けます…時間にして1分もなかったとは思いますが、数分間もに感じていました。
気が付くと揺れは収まり、ホッと一息。見回すと部屋の中は、本が散乱していました。
(地震か?大阪にこんな大きな地震が起きるか?)
(せやっ、親父とお袋は棚の下敷きになって無いやろな!)
薄暗い中を階下に下りて行きます。
「生きてるかー!?」と私。
「えらい揺れたなー。」と父親がベットの中から起きもせずに返事をしました。
「ちょっと家の建物見て来るわ。」と言い残して表へ出ますと、近所の方も数名出て来てまして。
「えらい揺れでしたなぁ。」
「大丈夫でしたか?」
「ええ、おかげさんで。」
家の周りを見回しますと、道路に何かが散乱しています。近づいて見ると、商品を入れる為の塩ビのクリアケースの蓋でした。
(これは屋上の物置に入れていたのに、何で此処に?)上を見上げますと、物置の窓が開いています。
慌てて屋上に昇りますと、鍵を掛け忘れていた物置の窓が、地震の揺れで全開になり、一番窓際に積んであったケースの蓋を入れたダンボールが倒れて、中身が下の道路に散乱していたのでした。
(軽い蓋で人に当たらんで良かった…これが窓が外れてガラスが落ちてたら…)
軽く身震いしました。
当時、暖房はセントラルヒーティングだったので、ボイラーで灯油を燃やしまして、沸かしたお湯を建物内を通っているパイプに流して暖房としていましたので、屋上に機械室が有りました。
そこも覗いて見ますと何だか勢い良く水が出る音がします。
(???まさか?)
幸い電気は止まっていませんでしたので、電灯のスイッチを入れると…
沸かしたお湯を貯めておくタンクの下の方から水が飛び出ていました。
(金属のタンク、それも石綿で巻いてるやつが割れる程の揺れって…)
大変な地震だったんだと改めて感じました。
地震の情報を確認しようとTVを付けましたが、7時のニュースで「大阪駅の地下鉄の水道管が破裂して水浸しです。」くらいの情報しか見られませんでした。
8時を過ぎた頃に、一人暮らしの社員たちに電話を掛けて無事を確認し、どうしても繋がらなかったところには訪ねて行きましたら、幸いにも無事が確認されましたので、ひと安心して戻って来ました。
数箇所外壁に亀裂が見付かりましたが、深刻なものでも無さそうですので、いつも通りに仕事を始めていましたが、ニュースを見ると神戸がえらい事になっていました…。
「阪神高速が倒れてる…。」あそこは仕入先がすぐ近くにある所でした。
「あっちこっちで煙が出てるで…。」
あとは、皆さんもニュースや特番でご存知の通り、時間を追う毎に被害が判明して行き、未曾有の大災害となったのでした。
私は地震後一週間目に現地に入ったのですが、在来線で大阪から宝塚へ近づくにしたがって、建物の1階部分が潰れている建物が目立ち。新神戸駅から三宮へ歩いて行く途中はビルが横倒しになってたり、ハーバーランドに至っては、地面に地割れが入り1メートル程の段差が出来ている場所もありました。
六甲アイランド付近の湾岸線は橋脚から道路部分がずれてたりしました。
(…これは、どないなるんやろ?戻るのに何年掛かるか分かれへん…)
その後、神戸を訪れる度に、ブルーシートから更地になり、新しい建物が建ち、道や街並みは綺麗になるのを見て来ました。
あの地震で、身体や心に傷を負った人たちは数え切れません。実際私も少しトラウマになりました。
あんな状況なのに、ブルーシートや水、食料を高値で売った人たち…。
自分も被災者なのに、炊き出しをしたり、救助に加わったりした人たち。
対応の遅かった政治家たち…。
伝える義務の名の下に、人の不幸に群がる報道関係者たち…。
一所懸命救助をしてくれた、自衛隊員や消防、警察の方たち。
人間不信になったり、それでも人間の暖かさを感じられたり…
すみません、まとまりません。思い出すと今でも涙が出てきます。
あの地震で、被害に遭われた方々のこれからの未来と、お亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りさせて頂きます。
私たちは、あの地震で少しは考えられる様になったのでしょうか?