2月4日・5日に奈良県に旅行に行ってきました。

 

全国旅行支援を使って行ってきました。

 

国からは、20%割引ですが、奈良県独自で30%追加支援してます。

合計で、50%負担してもらえます。

 

地域クーポンも国は、1,000円

奈良県独自で、1,000円支給してくれます。

 

半額で行けるし、1人2,000円クーポンもついてくるので行ってきました。

 

朝5時15分に自宅を出発。

 

途中で朝メシを(^^♪

 

 

 

 

マクドナルド  築盛店

 

ここは、24時間営業店舗です。

 

 

エッグマックマフィン

 

 

 

食べた後は、国道23号線を南下して、桑名インターから東名阪を使用。

 

亀山インターからは、無料区間です。

高速代がかなり浮きますねー

 

久しぶりに通りましたが、やはり起伏が激しい・・・

天理の下り坂もやはり怖いですねー

 

大型トラック乗車時代・今の会社の運輸部時代は、この道をよく通りました。

 

天理インターで下車。

 

20分くらいでしょうか。

初めの目的地に到着です。

 

駐車場は、このお寺周辺に大きな駐車場ありますが、お高い!!

ですから、お寺から徒歩6分くらいの場所の、コインパーキングに駐車。

 

奈良といえば、鹿ですよねー(笑)

 

こんなところにもいましたよー

 

 

 

やってきたのは、大仏で有名ですねー

 

東大寺

奈良市雑司町406-1

 

 

奈良の大仏さまで知られる奈良時代創建の代表的な寺院で、都である平城京に全国の国分寺の中心として建立されました。
大仏殿は世界最大級の木造建造物です。
天平15年(743)に聖武天皇が生きとし生けるすべてのものが栄えるようにと願い、盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)造立の詔を発し、
天平勝宝4年(752)に大仏さまは開眼されました。以降次々と堂塔が建造され、40年近くかけて伽藍が整いました。
都が移ったあとも大仏さまの寺として朝野の篤い信仰を集めました。
しかし、治承4年(1180)平重衡の軍勢によって大仏殿をはじめ伽藍の大半を失いました。
重源上人によって再興されましたが、永禄10年(1567)の三好・松永の乱で、わずかな建物を残して再度焼失してしまいます。
現在の伽藍の多くは公慶上人らによって江戸時代に再興されたものですが、法華堂や転害門、南大門をはじめ、
各時代を代表する国宝建造物を含む多くの文化財を伝えています。

 

 

 

東大寺&東大寺ミュージアム込みの料金、1,000円を支払い入場します。

 

 

国宝 大仏殿

 

東大寺の金堂である。奈良時代に創建されてから治承と永禄の二度の兵火に遭い、現在の建物は江戸時代に公慶(こうけい)上人によって再建された。ただ天平・鎌倉の大仏殿は桁行11間(約88m)であったが、財政困難の理由で7間に規模が縮小された。それでも高さや奥行は創建時のままで、世界最大級の木造建造物である。

 

 

 

大仏殿は高さ約48メートル、正面の幅約57メートル、奥行き約50メートル。世界最大級の木造建造物ですが、創建当時と比べると幅は約3分の2のサイズになっているとのこと。

大晦日から元旦の朝と、8/15に大仏殿のまわりに2500基ほどの灯籠が並べられる万灯供養会(まんとうくようえ)の日には、正面上の窓が開かれ、大仏のお顔を大仏殿の外から拝むことができます。

 

 

 

金銅八角燈籠(こんどうはっかくとうろう)

 

 

大仏殿の正面にあるのが、国宝に指定されている「金銅八角燈籠(こんどうはっかくとうろう)」。

実はこちら、奈良時代の大仏開眼と同時期に鋳造されたものだとか。四面に当時の楽器を奏でる菩薩、残りの四面に雲の中を駆ける獅子が彫られています。

 

 

 

 

 

 

 

 

大仏殿の中は左回りで一周でき、中では虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)、如意輪観音(にょいりんかんのん)、広目天(こうもくてん)、多聞天(たもんてん)などの仏像や、創建当時の東大寺の復元模型なども見られます。

神社仏閣では、内部での写真撮影を禁止しているところが多いのですが、大仏殿は自由に撮影OK。ただし、三脚の使用はNGとのことですので、ご注意ください。撮影時はマナーを心掛けましょう。

 

国宝。奈良〜江戸時代。像高14.73メートル。 国宝指定名称は「銅造盧舎那仏坐像」。一般に「奈良の大仏」として知られる東大寺の本尊像で、鋳銅製であります。奈良時代に聖武天皇の発願で造立され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

廣目天

 

 

増長天像頭部(ぞうちょうてんぞうとうぶ

 

大仏殿の諸仏再興の最後に残った四天王像は、寛政十一年(1799)広目天の衣木加地が行われ、その後、多聞天像とともに完成しましたが、待国・増長の二天は素木の頭部のみが残ったそうです。